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カルテを残した医師の墓

黒田長政の墓がある広尾の祥雲寺には著名人の墓もある。その一人に曲直瀬玄朔(まなせげんさくと読む)とその一門の墓がある。曲直瀬玄朔といって知っている人は医学の心得があると思う。日本の医学を高水準にまで高め、世界で最初となると思われるカルテなるものを残したことで有名である(この項は渋谷区教育委員会の説明板から引用)。
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さてその玄朔であるが、天文十八年(1549)京都に生まれた。本名を正紹といい、通称道三(二代目)、東井と号した。
初代道三の妹の子で、三十五歳の時、道三の養子となり、曲直瀬家を嗣ぐ。十二代にわたり日本の医界に君臨した曲直瀬家の基盤を築いた人である。玄朔の医法は初代道三と同様、あるいはそれ以上に、徹底してプラグマチックであり、医家の諸説を採長補短して自説の中にとり入れるという、基本的には李朱医学ではあるが、非常に幅広い考え方をもった人であった。
玄朔は天正十年(1582)法眼に叙せられ、文禄元年(1592)に征韓の役で朝鮮に渡ったが翌年帰国、喘息発作に苦しむ関白秀次公を治療して著効をあげた。慶長十三年(1608)徳川秀忠の病を治して江戸に招かれる。そして城内に邸宅を賜わって、京都と江戸に交代で住むようになった。玄朔は寛永八年(1631)、江戸で没した。享年八十三歳であった。
玄朔には多くの著書があり、『医学天正記』は、玄朔が28歳のときから58歳までの30年間にわたる診療記録(これが先にいうカルテであろう)を整理し、中風から麻疹に至る60の病類部門に分類して、患者の実名、年齢、診療の年月日を入れ、日記風に記載されているもので、史学の文献としても重要視されている。
現代でいえばマスコミが注目する名医であったと思う。その墓が我家の近所にあるとは知らなかったし、たまたま黒田長政の墓を見ようと思い、出かけたついでに説明板を読んでお参りしたしだいである。
by motokunnk | 2010-11-17 20:11 | 記念碑
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