巡洋艦「畝傍」と水雷砲艦「千島」

この2隻について知っている人はよほどのマニアか私のようにある場所に行って興味がわいて調べた人のどちらかであろう。
そのある場所とは青山墓地、中央通りから上り階段がある場所を登りきったところに「畝傍(うねび)の森」と題された庭園(ポケットパーク)がある(震災の影響か、その階段はチェーンが貼られて通行止めとなっていたが。)
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さてその庭園入口にはプレートが貼られており(写真左)、霊園にゆかりのある記念碑などが建てられていると説明されている。確かに、正面には記念碑と砲身のようなものが飾られている。その前にはプレートがあり(写真右)、巡洋艦「畝傍」と水雷砲艦「千島」についてなぜここに飾られているかが説明されている。
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ただプレートの説明では、何故巡洋艦「畝傍」と水雷砲艦「千島」がここに祀られているかがわからない。帰宅し調べてみると畝傍と千島の間には少なからず関係があったことが判明した。それは長くなるが調べた結果を転記するとこのようになる。
「明治海軍は拡張計画に基づき巡洋艦三隻の建造を計画、英国に「浪速」「高千穂」が、仏国に「畝傍」が発注された。明治19年 8月竣工、同年10月18日に日本への回航されることとなり、飯牟礼俊住海軍大尉以下の八名が回航員として乗り組み、仏側は76名の操艦員が乗り組んだ。12月3日、最後の寄港地シンガポールを横浜に向けて出港したが、入港予定の13日になっても到着せず、その後の捜索でも遂に同艦を発見することは出来なかった。原因として、トップヘビーによる転覆が考えられるが、その真相は今もって謎に包まれている。日本政府は同艦の建造費の残金(半額)を払う必要が無くなったが、仏側は保険金で水雷砲艦「千島」を建造し、残額の回収を試みた。しかし「千島」も納品航海時に遭難した。」
そして「千島」について調べてみると
「水雷砲艦「千島」は、明治19年に仏国が日本の発注を受けて建造したが納品前に遭難亡失した巡洋艦「畝傍」の建造費残額の回収を目的として、保険金によって建造された。明治25年4月1日、仏国ロワール造船所にて竣工、同年11月24日に長崎入港、28日に神戸へ向けて出港した。30日、波静かなる暗夜、松山堀江沖の釣島水道において英国商船と衝突し、艦長の鏑木海軍大尉以下乗員90名とともに海没した。」
とある。
畝傍の保険金で建造された千島も数奇な運命をたどって沈没してしまったわけである。それで、ここ霊園を建てて英霊の御霊を葬っているということであると勝手に解釈してしまった。
正面の記念碑以外にも左右にりっぱな石碑が建てられており、一見の価値はあると思う。青山墓地に行かれたさいには立ち寄ってみてはどうだろうか。
なお水雷砲艦「千島」の慰霊碑は松山市の浄福寺にもあるそうである。
詳細な説明は以下を参照
巡洋艦「畝傍」 巡洋艦 畝傍
水雷砲艦「千島」 → 千島 (通報艦)
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by motokunnk | 2011-04-18 19:41 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)
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