カテゴリ:記念碑( 52 )

表参道にある大山史前学研究所跡

表参道の通りを青山通り方面に歩いて東京ユニオンチャーチ脇の小路を歩いていくと、渋谷区教育委員会のプレートが目にはいる。「大山史前学研究所と大山柏邸跡」と記載されているプレートは今はマンションとなっているが、この地には「史前学研究所」が建てられていたと書かれている。
d0183174_20155282.jpg

大山柏という人物も史前学もよく知らなかったので調べてみることとした。調べてみてわかったのは大山柏という人物はあの大山巌、捨松夫婦の御曹司だった!
大山という姓は珍しい姓ではなかったので、まさか大山捨松の息子であるとは思ってもみなかった。なんでも柏は次男として大山家に生まれ、長男が戦死したことにより家督をついだ。しかし留学経験もあったりして日本軍人としてなじめなかったので、かねてから興味があり独学していた考古学の世界に没頭するようになったとウィキペディアには書かれていた。
そして自費で「大山史前学研究所」を自宅敷地内に建設して各種の資料収集編纂に力を注いだそうである。語学に長けていたので、ドイツ語で論文は書かれていたという。
d0183174_20161391.jpg

「大山史前学研究所は学術雑誌『史前学雑誌』を刊行するとともに、100箇所以上の縄文遺跡を発掘して、その成果を次々に学会に発表した。研究所には甲野勇、宮坂光次、池上啓介、竹下次作、大給尹らの所員がおり、研究所の活動を支えていた。これら多くの業績を残した大山史前学研究所は、山階鳥類研究所、徳川生物学研究所(後の徳川林政史研究所)と並んで「華族3大研究所」とも称される。」
とウィキペディアには書かれており、太平洋戦争末期の東京大空襲で研究所が焼失していなかったら歴史的な価値は相当であったと思う。惜しい資料を焼失したものである。戦後は華族制度廃止に伴い、渋谷区の土地は没収されたそうで、栃木県で余生を暮したそうである。
栃木県立図書館の特別コレクションに「大山柏文庫」がある。昭和45年に寄贈され、各国の戦史や明治維新関係の資料1000点以上が登録されているそうだ。もし機会があり、栃木県立図書館に行ったならば忘れずに特別コレクションを見てみようと思う。
大山捨松といえば、新島八重と並ぶ会津藩士の娘で明治維新後に大山巌と結婚して女性教育に力を注いだことで有名であるが、息子も歴史に名を残す功績をあげている。歴史秘話で取り上げたときに子孫の話もあればそのときに気がついていたと思うが、このように大山柏のことを知り、また大山巌・捨松夫婦の偉大さを再認識してしまった。
参考URL → 大山柏/ウィキペディア
参考URL → 失われた史前学―公爵大山柏と日本考古学 [単行本]
参考URL → 栃木県立図書館・特別コレクション
[PR]
by motokunnk | 2013-05-23 20:17 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

東京駅のちょっと変わった楽しみ方(番外編)

今朝は、昨日とはうってかわってひんやりとする天気である。日中も最高気温は12~13度と予想されているので、散歩にはコートが必要である。暖かくして出かけることにしよう。
さて先日、ブログでヤン・ヨーステンのことについて書いたがそのときに、レリーフの他にも胸像やオランダから乗ってきた船「リーフデ号」が東京駅周辺に設置されているということを書いた。それらを探して実際に見てきた。また探す際に、寄道をしたのでそのときに発見した史跡も併せて紹介することにする。
まず、ヨーステンの胸像の設置位置であるが、八重洲地下街にあるという情報が中央区のホームページに記載されていた。地下街といっても広いので場所を特定しようとネットで探しているとどうもノーススポットにあるというページが多くあったのでノーススポットに行ってみたが目指す胸像は見当たらない。どこにあるのか、探していると、中央通りにヨーステンと八重洲のつながりの説明パネルがあり、そこにはセントラルスポットに胸像があるとのこと、セントラルスポットを目指すことにした。
d0183174_826783.jpg

その道すがらなんとなく目指すヨーステンの胸像を発見することができた。セントラルスポットからちょっと外れた場所に胸像とその説明パネルが設置されていた。胸像探しでセントラススポットに行くと、ずっと昔(以前京橋に本社があったころからなので20年以上)から設置されている幸運の子豚像が設置されていた。このイノシシと間違えそうな子豚像は説明板によれば、実物はフィレンツエのウフィーツイ美術館にあるそうで、鼻先を撫でると幸運が訪れると言われている。鼻面はみんなに撫でられてピカピカに光っていた。私も撫でで幸運を呼び込むことにしたが果たして幸運はやってくるのかは?である。
d0183174_826276.jpg

ここまで歩いてきたので、「リーフデ号」の設置してある丸ビルまでは東京駅地下通路を経由して行くことにし、地下を歩いていくと、巨大な複数からなるレリーフの一団が目にはいってくる。
d0183174_8265894.jpg
このレリーフは、戦後GHQの特別待合室(東京駅にもGHQの部屋があったようだ!)の壁三面に渡って設置されていた石膏の巨大レリーフだそうだ。戦後の日本人の心意気を示そうと、当時気鋭の彫刻家たちが取り組んだものだそうである。1970年代には駅事務室となり、レリーフは覆われて見ることができなくなってしまっていたものだそうだ。東京駅復原計画でこちらの場所で公開することになったそうである。見ていて迫力がある。人通りも少なく、あまり知られてはいないようだが、宣伝すれば人気がでるはずである。JR東日本さん、ちょっと宣伝してみてはいかがでしょうか。
d0183174_82724100.jpg

そしてそのまま改札に入ると、こちらも復原工事で総武線から移された巨大なステンドグラスを目にすることができる。福沢一郎作の「天地創造」である。総武線へむかう通路にあったことは知らなかった(覚えがないといったほうが正しい)が、こちらもりっぱなステンドグラスである。以前ブログで書いたが日本交通文化協会が関与した作品だそうだ。
d0183174_8274564.jpg

この他にも円鍔勝三作の銅像「仲間」が八重洲中央口から続くコンコースに設置されている。東京駅はパブリックアートが随所に散りばめられているスペースといえる。探せば隠れたパブリックアートが多数存在しているようである。
さて、目当ての「リーフデ号」は丸ビルの南側に設置してあった。こちらは、すぐに見つかる場所にあり、1980年にオランダ首相が来日した際に、同王国から寄贈されたものであると説明パネルに記載されていた。さすがに30年以上も設置されているわけで時代を感じさせるが、老朽化しているとはいえない。
d0183174_828928.jpg

ハウステンボスにも同名の船が設置(今はワンピースの海賊船となっているようだ)されておりこちらは乗船することができるそうだ。
さて今日は、昨日ブログで書いた、東横店屋上のプレイランドを見にいってこようかと思っている。
参考URL → 中央区観光協会オフィシャルブログNo.17
参考URL → 八重洲地下街の「幸運の子豚」
参考URL → 東京駅・40年ぶり復活の巨大レリーフ
参考URL → 天地創造
参考URL → 東京駅に圓鍔勝三作品「仲間」が
[PR]
by motokunnk | 2013-03-30 08:30 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

ヤン・ヨーステンと平和の鐘はオランダつながり?

1ヶ月ほど前のテレビのクイズ番組で、ヤン・ヨーステンという人物のことを知った。なんでも八重洲の名称はヤン・ヨーステンの名前に由来しているとのことである。
確かに八重洲通りの中央分離帯にはヤン・ヨーステンのレプリカが設置されており、八重洲との関係があることがわかる。
d0183174_835682.jpg
そこでヤン・ヨーステンについて調べてみると
「ヤン・ヨーステンはオランダの航海士、朱印船貿易家。日本名は耶楊子。ヤン・ヨーステンは名で、姓はファン・ローデンスタイン。1598年にオランダ東インド会社がロッテルダムからアジアの極東を目指す航海のために司令官のヤックス・マフが乗組員を集めている時に、ヤン・ヨーステンは応募しリーフデ号に乗組みました。」
1598年6月に5隻の船団はロッテルダム港を出航しました。新大陸アメリカで積荷を銀に換えようとしましたが失敗し、マゼラン海峡を越えて日本を目指し、日本で積荷を銀に換えて、モルッカへ行ってスパイスを買う予定でしたが、マゼラン海峡を通過するとき嵐に遭遇して、船隊はバラバラになりました。トラウ号は東インド諸島でポルトガルに拿捕され、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返しました。残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も遭難、沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となりました。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病の蔓延、インディオの襲撃に晒されたために次々と乗組員を失っていきました。こうして出航時に110人だった船の乗組員は、僅かに24人にまで減っていました。
ヤン・ヨーステンが乗組んでいたオランダ船リーフデ号は嵐に遭遇して、1600年4月19日に大分県の臼杵に漂着しました。自力では上陸できなかった乗組員は臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏みました。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はヤン・ヨーステンらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰ぎました。この間にポルトガル・イエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求しました。結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、ヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムス、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させました。
その後、徳川家康に謁見して信任され、外交や貿易についての顧問となりました。江戸の「丸の内」に屋敷を貰い、日本人と結婚し、耶楊子と名乗りました。オランダ船リーフデ号漂着の成果は幕府がオランダに発行した朱印状、つまり通商許可証でした。1609年にオランダ船が平戸に入港し、それ以降、日蘭貿易が本格的に始まりました。
彼の江戸屋敷は現在の和田倉門~日比谷間の内濠の沿岸に与えられ屋敷を構えました。この地が彼の 名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続きました。現在は、中央区の八重洲 としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っています。」
ということだそうだ。ヤン・ヨーステン、江戸時代初期にひょんなことで日本に漂流したオランダ人が八重洲の地名になって後世にまでその名を残すとは彼本人がビックリしているのではないだろうか。
ヨーステンのレプリカのそばには、中央区の平和の鐘も設置されている。
d0183174_8353026.jpg

「平和の鐘は資料によると1988年3月15日に中央区は世界の恒久平和と人類の永遠の繁栄を祈念し「平和都市宣言」をいたしました。三角形のアーチは、この宣言を記念するモニュメントとして、設置したものです。この平和の鐘は オランダ製で26個のベルによって四季おりおりのメロディを奏でます。」とある。
ヨーステンはオランダ人、この鐘もオランダ製、どちらもオランダに縁があるようだ。
ヨーステンの記念碑はこの他にもリーフデ号などが八重洲地区にあるようなので、次回はそれらをまとめて紹介できたらと思う。
参考URL → ここに歴史あり
[PR]
by motokunnk | 2013-03-09 08:37 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

腹部MRI検査と献血発祥の地

今日は病院で腹部MRI検査の日である。朝から病院へ行き、検査を行い結果を聞いてさきほど帰宅した。もともと人間ドックで腎臓やら肝臓に嚢胞があることはわかっていたが、近所のクリニックに紹介されて腹部MRI検査をしたのがちょうど1年前であった。ブログでも書いたが1年前は大雪であった。あれから1年経過しての検査である。
半年に1度検査を受けるのだが、毎回嚢胞の大きさは変わっていない。10数年前から大きさは変わっていないのでもともとあった嚢胞なのかもしれない。また半年後に検査しましょうといわれ、予約を入れられてしまった。今日は年休をとっているので問題はないが、仕事が閑散期となる二月、八月であるので、繁忙ではないだろうと思っている。
さて、最近気づいたことがある。通っている病院は日赤医療センターであるが、前の通りに面した植え込みの中に球体のモニュメントがある。そばに行ってみると、球体のモニュメントのほかに、御影石製の背の低い石碑が併せて設置されている。
d0183174_13383521.jpg

文字も書かれており、モニュメントには「誕生日に献血を」、石碑には「献血発祥地碑」と書かれて、「日赤中央血液センター」と「東京秋葉原ライオンズクラブ」の文字が彫られているのが読み取れる。
もともと献血は売血に頼っていたそうだが、1964年にライシャワー米大使が暴漢に刺される事件の際に輸血によって肝炎を発症したことから問題視され, 売血を禁止して すべて日赤による献血血液に切り換えられることになったそうだ。
日赤による血液事業は1952年に「日本赤十字社東京血液銀行」として開始され、やがて「日赤中央血液センター」として この地(渋谷区広尾)に移転した。そのこともあり、この地に記念碑が建てられたのだと感じた。献血ひとつとっても奥が深いと思う1日であった。
d0183174_13384737.jpg

通りのむかいの学校では梅の花が咲き始めていた。天気予報では今日春一番が吹くと言っていたが、そろそろ春の気配が感じられそうである。
参考URL →  血液事業を知ろう
参考URL → 献血発祥之地
[PR]
by motokunnk | 2013-02-07 13:41 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

散歩を楽しく/常磐松の碑について

総選挙、知事選挙も終わりちまたにまたいつもの生活が戻ってきたような感覚である。以前から気になっていたのだが、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の道路を挟んだ反対に一つの石碑が建てられている。
d0183174_1935037.jpg

その石碑の脇には渋谷区教育委員会が設置した案内板が建てられている。その案内板によると今日のブログのテーマである「常磐松」がこの地にあったことを記している。残念なことに先の第二次大戦の空襲で焼失してしまったそうであるが、もし焼失を免れたいたら樹齢400年以上になる松が存在していることになる。このエリアのランドマークとして有名になったいたのではないかと思われるので残念なこと、戦争の悲惨さは人間だけでなく自然も破壊してしまうということを実感した。
この松がなぜ常磐の松と言われるかについては諸説があるそうだ。一説には、源義朝の側室で牛若丸の母である常磐御前が植えたと伝えられている。この説が常磐松という地名にもなったといわれている。説明板によれば、世田谷城主吉良頼康の妾、常盤のことであるともいわれている。こちらの場合は樹齢400年と言われる松の年齢ともおおよそ一致するのでこちらの説が正しいのかもしれない。
この吉良頼康の妾、常盤についてはいろいろと地元では有名人のようで数々の逸話が残っている。これはまたの機会にでも紹介しようかと思う。
話はずれてしまうが、もともとこの地区は常磐松町といわれていた。それが昭和39年に実施された町名変更で東何丁目というようになったわけである。常磐松という名はわずかに小学校に残っているが、相変わらず、地元の町会にはその名称が残っている。
その名称の常磐松がこの常磐の松からの命名であることは間違いないのでそういう意味からは、由緒ある松である。すぐ隣には常陸宮殿下が住む常磐松御所があるが、その御所も名称も常磐松となっている。また今の天皇陛下もこの地に住まわれており、皇太子もこの地で生活した記憶がある。古い話であるが、我が家の隣にも皇太子と同世代の子どもがいて、高貴な顔付(だったかは忘れたが、その両親がそう言っていた)のためか誘拐(そのころ吉展ちゃん誘拐殺人事件が世の中を震撼させていたので)されることを心配したいたことが思い出される。
またまた話がずれてしまったが、常磐の松とはいろいろな人にとって、数々の思い出がつまっている松(常磐松という名称のほうが正しいのかもしれないが)と言える。
説明板には次のように書かれている。
「もとこのあたりにあった皇室の御料乳牛場の構内に常磐松と呼ばれた樹齢約四百年、枝ぶりのみごとな松がありました。その松は源義朝の妾、常盤が植えたという伝説があり、また一説には世田谷城主吉良頼康の妾、常盤のことであるといいますが、はっきりしたことはわかりません。
この近くにはかつて渋谷城があり、渋谷一族の金王丸は義朝、頼康の二代に仕えた臣ですから、常盤御前が植えたという伝説が生まれたのでしょう。
この碑は御料地になる以前に、その土地が島津家の持地だったこともあり、そのときに島津藩士によってたてられました。当時常盤松の代価壱千両といわれたほどの名木でこのあたりの地名であった常盤松町の起源となりました。」
なお常盤と常磐についてであるが、そもそもは常盤という漢字が利用されていたそうだが、皿は割れるので縁起が悪いという理由で町名は石の文字のほうを利用したそうである。
参考URL → 常磐松町
[PR]
by motokunnk | 2012-12-20 19:07 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

東京駅のちょっと変わった楽しみ方(前編)

ちまたでは、今日の国会の党首討論で野田首相が「16日に解散します」と言って大騒ぎとなっている。これも大きな話だが、本当に解散するのかどうかは16日になってみないとわからない話ではある。自民党が定数削減に応じるかどうかに解散するかどうかがかかっているからである。それはさておき、東京駅丸の内口の復原工事が終了し、東京駅そのものが観光エリアとなって1カ月半が経過した。
今でも日中用事で丸の内に行くと、いかにも東京駅観光で来た人たちの集団を見ることができる。
さてそんな東京駅であるが、ちょっとかわった楽しみ方もあるので紹介したい。それは今日、11月14日に若干関係がある。東京駅で首相が襲撃された事件で思い出すのは原敬元首相の暗殺事件がある。
実はこの他にも首相襲撃事件がある。浜口雄幸元首相がその人であり、襲撃されたのが1930年11月14日! すなわち82年前の今日なのである。オフィスが京橋に移り、帰宅する際は健康のため東京駅経由で帰ることにしているのだが、八重洲口改札からつぐく通路の柱の一つにプレートが埋め込まれている。
そのプレートが浜口雄幸元首相襲撃事件のプレートである。そのプレートの周辺をみると一枚周囲とことなるタイルが貼られており、そのタイルにポイントが埋め込まれている。このポイントが実際に浜口雄幸元首相が襲撃された場所を示しているのだそうだ。
d0183174_1848345.jpg

浜口雄幸元首相という人も知らなかったので調べてみるとこれがりっぱな人物だったようである。
「高知生まれ。大蔵官僚、政党政治家。生家の父は山林官。明治28年(1895)東京帝国大学法科卒業、同年大蔵省入省。40年(1907)専売局長官となる。大正元年(1912)逓信次官、3年(1914)大蔵次官。立憲同志会に参加し、4年(1915)に衆議院議員に初当選し、以後6回当選した。憲政会総務をつとめた後、加藤(高)内閣蔵相、第1次若槻内閣内相、蔵相を歴任。昭和2年(1927)立憲民政党初代総裁。4年(1929)首相となり、金解禁を断行、ロンドン海軍軍縮条約調印を行う。5年(1930)東京駅で狙撃され重傷、翌年死去。」(出典:近代日本人の肖像から)
d0183174_18493138.jpg

ウィキペディアによれば、「その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相」とあり、狙撃後も自身の容体悪化にもかかわらずに国会答弁を行ったこともあり、狙撃後の翌年に死亡した。「議会で約束したことは国民との約束であり、宰相たるものがそれを裏切れば、国民は誰を信頼すればよいのか。」との名言がある。「男の本懐」という言葉も浜口元首相のことをモデルにして書かれた小説である。どこぞの宰相(と出身母体の政党)に聞かせたい言葉である。
これが浜口雄幸についてである。なかなかの人物であろことがわかり、その死をいたんで国民葬が行われたともいわれている。今の政治家でここまで慕われている人は皆無かなあと思ってしまった。
さて、浜口雄幸狙撃プレートの説明はこのあたりにして、もう一人の宰相である原敬元首相の狙撃現場はどこか探してみると、これが新装なった丸の内南口にある。こちらは改札を出た(改札の外)ところにあり、しいて入場券を購入しなくても見ることができる。こちらもプレートのそばの床にポイントが埋め込まれており、そのポイントが実際に狙撃された場所だそうだ。
d0183174_1849587.jpg

浜口雄幸狙撃の約10年前に狙撃され(といって浜口の時は拳銃であったが、原敬のときは刀で刺された)、ほぼ即死に近い状況であったそうだ。原敬と言って庶民宰相というぐらいしか知識がないのでさきほどの浜口雄幸と同じサイトで調べてみると、
「岩手生まれ。ジャーナリスト、官僚、政党政治家。父は南部藩士。苦学の末、明治9年(1876)司法省法学校に入学。12年(1879)に退学後、郵便報知新聞、大東日報の記者をつとめる。外務省入省を契機に官界へ転進。外務次官などを歴任。30年(1897)9月、官界から引退するが、伊藤博文を中心に結成された立憲政友会に参加。35年(1902)衆議院議員に初当選。以後連続当選8回。政友会の実力者として西園寺公望総裁を補佐し、桂園内閣時代の立役者となる。大正3年(1914)第3代立憲政友会総裁。7年(1918)首相となり、初の本格的政党内閣を結成するが、10年(1921)東京駅で暗殺された。」
d0183174_18502314.jpg

と説明されていた。現職の首相が10年間に2人も狙撃されたという今考えると治安が非常に悪かった時代だったのかもしれない(うらをかえすと、狙撃に値しない人しか首相をしていない)。いずれにしろ、この事件から515事件~226事件へと日本が太平洋戦争へ進んでいく道を走っていってしまうのである。まあこの2人が存命であったとしても大きな流れを遮ることはできなかったかもしれない。
このように一つのプレートをみてもその背後には歴史があり、いろいろなことを考えさせられる出来事が隠されているのである。このプレート紹介を含めて東京駅の紹介サイトにはお薦め観光スポットというページが用意されている。
d0183174_18504761.jpg

それによれば東京駅の石碑、開業時のホームの支柱、ゼロキロポスト、駅長室が紹介されている。これら以外も含めて別の機会に紹介しようと考えている。
参考URL → 東京インフォ
この中に観光スポットというページがあり、そこに原元首相、浜口元首相のおおよその狙撃位置が掲載されている。
参考URL → 東京駅の歴史
10月一杯で展示は終わってしまったが、丸の内から京葉線へ向かう地下通路に展示されていた東京駅の歴史パネルを見ることができる
参考URL → 近代日本人の肖像
国会図書館のDBである。ブログ中の写真、紹介文もここから転載した。このサイトには近代日本の形成に影響のあった、政治家、官僚、軍人、実業家、学者、芸術家等約350名の肖像写真が紹介されている。歴史を紐解くうえでたいへん便利なサイトである。
参考URL → 原敬事典
原敬のすべてがわかるサイトである。個人で運営しているようであるが、いろいろな分野もありたいへんなことだと思う。
[PR]
by motokunnk | 2012-11-14 18:53 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

散歩を楽しく/ハチ公と8月15日

昨日はブログを書き上げてから、雨も降っていないので、散歩にでかけることにした。どこに行くという目的もなく、とりあえずは渋谷駅方面へと歩をすすめた。
渋谷駅につくと、列車の案内表示板では東横線・渋谷駅での人身事故により、電車が遅れているとの表示がでていた。東横線渋谷駅で人身事故とは珍しいなあと思うが、帰宅してからニュースを見ていると、駅から転落しての片足切断の重傷とか、ホームドアがあれば防げた事故ではあるが、来年3月にはヒカリエに移設が決まっている駅に投資することはないであろうなどと勝手な推測をしてしまった。d0183174_9291282.jpg
乗客の注意喚起徹底が重要なことなのかもしれない。さて、渋谷駅にはヒカリエがオープンする前はマークシティがショッピングやグルメの一大スペースであった。その中に「クリエーション スクエア しぶや 」というエリアがある。渋谷区の関連施設で渋谷区観光協会併設(http://shibuyakukanko.jp/)の施設のようである。たまたま立ち寄ってみると、それほど広くないスペースには、何ヶ国語に翻訳された渋谷や東京を紹介するパンフレットがおかれていた。お盆ということもあり、渋谷区の担当者はフロア内にはいなかったが、電話の応対はされていたので、多分中の執務スペースには常駐しているのであろう。
展示スペースもそこそこあり、そこには「ハチ公」に関連する写真やパネルが展示されていた。写真は以前も見たことがあるもので私にとっては目新しいものではなかったが、奥の説明パネルには知らなかった事柄が多数記載されていた。ハチ公は飼い主の東大上野教授の死後、日本橋の商店に引き取られたが、そこに居つくことはなかったこと、上野家出入の植木職人の小林菊三郎のもとに預けられたこと、そして日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉の新聞への投稿記事が反響を呼んでついに生きているうちに銅像まで建てられてしまった。
そしてその銅像も数奇な運命をたどることになり、第二次世界大戦のおり、金属供出として一度は解体されてしまった。終戦後に再度復元されて現在、私たちが眺めているのは2代目のハチ公の銅像である。
そんなパネルを読んでいたら、ハチ公を見て帰ろうという気分になり、ハチ公の写真を撮って帰宅することにした。
d0183174_9302662.jpg
休日のハチ公前と同じで、ハチ公と一緒に記念写真を撮っているカップルや家族連れが多数見受けられた。ふとハチ公銅像の後を見ると、なにやらパネルが埋め込まれており、そのこにこの銅像を建てた設立主旨について記載されていた。
またハチ公前広場には、大きな信楽焼でできたパネルが埋めこめられた壁も設置されている。
d0183174_9303915.jpg
こちらはJR東日本が「ハチ公ファミリー」と名前をつけてハチ公とその家族(両親は当然いるが、子供がいたかどうかは不明である)のイメージを焼き物の形で具現化している。よく待ち合わせの人たちで一杯の光景をみる。
とそのようなことも思っていると、夕方のNHKのニュースでは2代目のハチ公の銅像を製作して作者の安藤士が出演しているではないか。氏の弁では銅像の除幕式は8月15日に行われたとのことである。平和を願う意味で8月15日を選んだとのこと、何か、動物であってもまた動物だからこそメッセージを発信できる素晴らしい存在なのかもしれないと思った。
ネットで調べていると渋谷区の図書館には「ハチ公ファイル」なる資料が存在するようである。暇があれば図書館に行って見ようかとも思っている。

マークシティ → クリエーション スクエア しぶや
デジタル渋谷 → ハチ公物語
渋谷区立図書館 → ハチ公ファイル検索結果
[PR]
by motokunnk | 2012-08-16 09:32 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

恵比寿という街の由来と豊沢貝塚

恵比寿という地名は明治初期にビール工場が誘致され、そのビール名からとられたものであるということは有名である。では恵比寿という名前の前にはどういう名前でこのエリアは呼ばれていたのであろう。
いつものようにウィキペディアで恵比寿を調べてみると、
「この周辺は江戸時代には、下渋谷村・三田村と呼ばれており、渋谷川と三田用水に挟まれる農村で、大名の下屋敷が点在していた。」とあり、「恵比寿一丁目は山下町、恵比寿二丁目は新橋町および豊沢(とよさわ)町、恵比寿三丁目が伊達(だて)町、恵比寿四丁目が景丘(かげおか)町であった」と地名は変遷している。
伊達町は仙台伊達家の下屋敷があったことからの呼び名であろうし、おおよそ名前の由来については想像できることが多い。
d0183174_8355080.jpg

今回、ふとこのあたりを散策していてみかけた教育委員会の説明プレートについて紹介する。それは、「豊沢貝塚」についてである。遺跡ウォーカーというサイトがあり(何でも知りたいことはジャンル別にサイトが立ち上がっているものである!)、この遺跡の位置や出土品が一覧できる。ちょっとした調べものをするには検索エンジンを利用してキーワードをいれらば結果がわかるという便利な世の中になったものである。
恵比寿三丁目からなだらかな坂を上った先に貝塚のプレートが設置されているのであるが、この坂を和田坂というそうである。豊沢貝塚のある場所には幼稚園や教会があり、豊沢という名前は地元になじんでいるようである。
d0183174_836512.jpg

ちなみに渋谷区の図書館で豊沢貝塚についてOPAC検索をしてみると、3件の調査報告書が所蔵されていることがわかった。ネットで調べることにすまさず、今度は図書館の資料という現物を目にして調べてみようかと考えているがいつの日になるやら不安もたっぷりである。

遺跡ウォーカー → トップページ
[PR]
by motokunnk | 2012-02-05 08:37 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

散歩を楽しく/竹橋周辺に残る学問発祥の地

竹橋駅周辺には○○大学発祥の地なる記念碑が複数建てられている。まず有名なものは学士会館である。
d0183174_915924.jpg

学士会館のホームページによれば「明治10年東京大学の創立から明治19年に帝国大学が設立されるまでの間、当時の東京大学綜理であった加藤弘之先生の謝恩会を機に創立された学士会に端を発します。のちに、旧帝国大学(現在は国立7大学)の同窓会組織に発展した学士会会員の交流の場として建設された会館が、大正2年の神田三崎町で発生した大火で焼失し、さらには大正12年関東大震災によって仮会館も焼失したため、昭和3年、東京大学発祥の地に再建されたのが現在の学士会館です。この地は日本野球発祥の地でもあり、同志社を建学した新島襄の生誕の地でもあります。プライベートな会員のための施設として発展してきた会館ですが、現在では会員以外の多くの方々にご愛用いただいております。」
とあり、わずか10年あまりではあったが、この地に後の東京大学となる帝国大学が発祥したことがわかる。また神田方面へむかう敷地の片隅にグローブを形にした記念碑が建てられたいる。
d0183174_9152429.jpg
記念碑をみると、日本野球発祥の地とある。詳細は千代田区のホームページを参照してほしい。
記念碑までではないが、同志社を建学した新島襄の生誕の地でもあるそうだ。
さて、通りの反対側には学術総合センターの高層ビルが建設されているが、ここも元はある大学発祥の地である。
d0183174_9153953.jpg

その大学とは「東京外国語大学」でありこれまたりっぱな記念碑が建立されている。その記念碑には「東京外国語大学の起源は 安政1(1857)年に創設された 蕃書調所まで遡るが, 直接の前身である東京外国語学校が開設されたのは, 明治6(1873)年11月1日, この地(当時の 東京府神田区一ツ橋通町一番地)においてであった。
東京外国語大学は この日を建学記念日として, ここに碑を建立する。
   平成14(2002)年3月27日      東京外国語大学」のように記載されている。
そしてその隣が如水会館である。ここが一ツ橋大学の発祥の地と思っていたがそうではないらしい。一ツ橋大学発祥の地は別の場所に記念碑が建立されているとのことである。また別の機会にその地を訪ねてみようかと思っている。
d0183174_916147.jpg

如水会館は一ツ橋大学OB会の名称とのことで誤解をしていたようである。今回、このブログを書くにあたって調べてみてわかった。ブログを書くと、今までの記憶違いを修正することができていいことかもしれない。
そして今は丸紅本社ビルが建っているが、江戸時代には徳川一ツ橋家の屋敷が建てられていたそうで、そのことを示す記念碑も建てられている。
d0183174_9162455.jpg
それで一ツ橋という橋が命名されたのかどうかは定かではないが。
このようにちょっとしたエリアに発祥の地が固まっていつことも東京の面白さのひとつかもしれない。ほんの数分歩いただけで数件の記念碑を見ることができるのだから。

学士会館 → 歴史のページもある 
千代田区観光協会のページ → 観るの中から
発祥の地コレクションから → 東京外国語学校発祥の地
如水会館 → 如水会のいわれがある
[PR]
by motokunnk | 2011-11-06 09:17 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

昨日までクールビズ、今日からウォームビズ、そして宗谷

昨日まではクールビズであった。ただ10月後半は肌寒い日も多く、実際クールビズという雰囲気ではなかった。そして今日からウォームビズである。
クールビズは毎年やっているので知っていたがウォームビズとは初耳である。ただ去年も実施していたようであるが。要は冬の暖房設定温度を低めに設定して、省エネを図りましょうという運動のようである。各地でその取り組みが紹介されていた。
さて、今日は先週土曜日にお台場まで出かけて「モータースポーツフェスティバル2011」を見に行った帰りにその向かいにある宗谷を見てきた報告である。
d0183174_1924354.jpg

夏に青函連絡船・羊蹄丸と南極観測船・宗谷というブログ記事を書いたが、実際に内部を見学したのは羊蹄丸のみ、宗谷は見なかった(8月末以降でも内部を公開しているということもあり)。そして今回、宗谷内部を見学してきた。
TBSで日曜日にキムタク主演で「南極物語」が放映されているということもあり、結構人が多いかと思ったが、見学者は、結構年輩の方が多く、元海保の人もいたようである。
さて、南極観測船として有名な「宗谷」であるが、もともとはソ連発注の耐氷型貨物船のうちの1隻だったそうである。第二次大戦がはげしくなり、ソ連に引き渡されることなく、日本海軍の特務艦として活躍したそうである。終戦後は海上保安庁の巡視船として北海道を中心に活躍したそうである。
そして1956年、日本は国際地球観測年に伴い南極観測を行うこととなり、南極観測船が必要となった。白羽の矢がこの「宗谷」に向けられ、南極観測船「宗谷」がデビューすることとなったのである。
d0183174_19242724.jpg
d0183174_19244032.jpg
d0183174_19245185.jpg
その後の「宗谷」については「タロ・ジロ」など何度も取り上げられており、その後1962年に後継の南極観測船「ふじ」に譲り、再び通常任務に復帰。北海道に配備され、1978年退役まで北海道を中心に活躍したとのことである。
その後は「船の科学館」で展示され今日に至っている。船内はいろいろな説明がなされており、素人である私でも十分に理解できた。いろいろためになった宗谷見学であった。

ウォームビズ → Google News
宗谷のことは → いつものウィキペディア
[PR]
by motokunnk | 2011-11-01 19:25 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)