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宮川実を知っていますか

私も今日までこの名前を知らなかった。たまたま購入した「ナンバー」にこの騎手が特集されていた。騎手といってもJRA所属ではなく、高知競馬所属の騎手である。
なぜ「ナンバー」で特集されているかというと、彼は隻眼騎手だからだ。昨年の5月に高知競馬場で落馬してしまい、左目を失明してしまった。JRAでは今年トップジョッキーの落馬負傷(つい最近も横山典弘騎手が落馬して秋のG1シリーズ欠場が決定的であるし、岩田康誠騎手も落馬負傷で休養中である)が多いが、幸いなことに騎手生命が絶たれるような事故にはなっていない。
ただ宮川騎手の場合は騎手生命が絶たれてしまっても不思議ではない、失明である。「ナンバー」によれば、彼は騎手をやめるのであれば、調教師など競馬関係に残ることはせずに、きっぱりと競馬社会から引退と考えていたそうである。調教師の先生が過去に隻眼騎手として活躍した騎手がいるということを話したことがきっかけで1年かけて復帰をしたそうである。
復帰後は、強引なレースが多かったといわれる事故前に比較して馬の気を大切にするレースを心がけているそうであり、復帰後も勝ち鞍をあげている。ハルウララで一躍有名になった高知競馬であるが、宮川騎手を知ったことで高知競馬に親近感を覚えてしまった。そういえば、JRAの名騎手であった福永洋一氏も高知出身で高知競馬には福永洋一記念というレースが今年から開催されるようになったそうである。JRAもいいけれど地方競馬に注目してみるのもいいかもしれない。

復帰を伝える新聞記事 → 日刊スポーツ
高知競馬 →  ネット投票の申し込みページもある競馬場トップページ
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by motokunnk | 2010-09-30 19:19 | スポーツ全般 | Trackback | Comments(0)

文豪の旧居

我家の近所に昭和の文豪の住まいがある。実際、私が小学生の頃に白髪の老人をよく見かけたものである。品のよさそうな老人だなあとは思っていたが、まさかその老人が志賀直哉だとは思いもよらなかった。
ということで、志賀直哉が晩年を過ごした住居が我家のすぐそばにある。志賀直哉といえば、白樺派を代表する小説家のひとりで、代表作は『暗夜行路』、『和解』、『小僧の神様』、『城の崎にて』などがある。どれも秀作であり一度は読んでみたい本である(残念ながらまだ読んだことはない)。これを気に読んでみようかと思っている。
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現在も志賀家の方が自宅として住まわれている。ただ、この入口は閉められており、通常は別の通りに面した表玄関から出入りされている。
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by motokunnk | 2010-09-29 19:14 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

E259系の新技術

E259系といって、私は鉄道オタクではない。先日あるIT系の技術者と会ったときのことである。彼は猫と犬がでてくるCMで犬は固定、猫は移動というキャッチが受けているUQ-WiMAXの会社人間である。
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彼曰く、成田エクスプレスの液晶TVにデータ送信する仕組みとしてWiMAXが利用されているとのことである。早速調べてみると確かにプレスリリースがでていた。
「WiMAXにより高速走行する車両と地上間で高速な情報伝送が可能になり、動画コンテンツ等の大容量データの伝送がタイムリーかつ低コストにできるようになりました。」(プレスリリースより)
確かに、大容量のデータ転送にはWiMAXが優れていることは自明であるから、電車の液晶に天気予報やフライト情報などを表示するのには適していると思う。
とここまで書いていたら、何と車内でもWiMAXが利用可能になっているそうだ。今年の7月下旬からサービスを開始したという記事を発見した。世の中の進歩を実感している毎日である。一度成田エクスプレスに乗車してみようかな。

新聞記事はこちら → http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100723-00000052-zdn_m-mobi
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by motokunnk | 2010-09-28 19:16 | 最新技術 | Trackback | Comments(0)

黒田長政の墓

戦国武将として有名な黒田長政の墓が広尾にある。この写真がその墓である。
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では、歴史を紐解いて黒田長政について調べてみる。今回は私の記憶によるものであり、間違いがある場合はご容赦願いたい。長政はご存知、黒田官兵衛の長男である。荒木村重が謀反を起こしたとき、官兵衛はその説得係りとして村重の居城に出向くが、逆に幽閉されてしまう。織田信長は長政を殺すように秀吉に指示する(官兵衛は織田信長の家臣であり、長政は人質として信長家臣の秀吉に預けられていた)。ところが、秀吉の家臣・竹中半兵衛が指示を無視してかくまっていたそうである。そのおかげで晴れて黒田官兵衛が助けられたときに息子との対面ができたといわれる。長政自体もある意味では、数奇な運命をたどった戦国武将であったのかもしれない。信長暗殺後、秀吉の世界になると黒田官兵衛は家督を長政に譲り、黒田家は長政の代となる。一説には黒田官兵衛の力量をよく知っている秀吉の黒田家つぶしを未然に察知した黒田官兵衛の機転という説もある。
そして関が原では、徳川家康につき、武功をあげて大名となった。その墓が広尾の祥雲寺にある。そして渋谷区の区指定史跡となっている。
なぜ渋谷区にあるかは、区のホームページに簡単な説明があるのでそちらを参照してほしい。祥雲寺には他にも有名人の墓がある。それらをおいおい紹介していくことにする。

区指定史跡黒田長政の墓
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by motokunnk | 2010-09-27 19:47 | 記念碑 | Trackback(2) | Comments(2)

渋谷道玄坂の東京新詩社跡

道玄坂を登ること1分程度、マークシティ入り口への曲がり角を左に曲がるとこの木柱が歩道の片隅に立てられている。
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木柱は、平日はサラリーマン、休日ともなると若者たちで賑わうマークシティ界隈に数十年前に与謝野鉄幹、晶子夫婦が設立した東京新詩社があったことを知らせている。
では東京新詩社とはどのようなものなのか、調べてみた。
ネットによれば(相変わらず、この一言からはじまってしまうが)、
与謝野鉄幹主宰の詩歌結社。早くから和歌革新運動に従った鉄幹は,1899年新詩社を結成し,翌年機関誌「明星」を創刊した。短歌を中心としてはなやかな浪漫主義文学運動を展開し,与謝野晶子、高村光太郎、石川啄木、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、佐藤春夫らを世に送った。
とある。いずれも1900年代初頭に活躍した文豪たちである。この場所で住いを変えながら「明星」を発行していたのである。その後千駄ヶ谷に移り住んでいる。
木柱には渋谷区教育委員会の言葉が書かれている。
「与謝野鉄幹は明治34年(1901年)麹町から渋谷に移り住み、晶子と結婚しました。東京新詩社の機関誌『明星』を12号から発行し、晶子も歌集『みだれ髪』を刊行しました。詩歌革新を目指して盛んに文学活動を行いましたが、明治37年に千駄ヶ谷に移るまでに、この近くに2度住まいを変えています。千駄ヶ谷に移り住んでから、東京新詩社は最盛期を迎え、晶子も歌集『恋衣』や『夢の華』などを刊行しましたが、新詩社の機関誌『明星』が100号で廃刊される事態となり、明治42年に神田駿河台に移りました。」
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by motokunnk | 2010-09-26 08:16 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

大船の観音さま

JR東海道本線大船駅を通過する際、車窓からこの観音様をよく目にする。仕事柄大船に出向くことがよくあり、観音様には親しみを感じていたが、その生業については知らなかった。そこで今回調べてみることにした。
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観音様、実は大船観音寺というりっぱな寺院の観音様のようである。ホームページの沿革を読むと、観音寺は神奈川県總持寺を本山とする曹洞宗の末寺であり、聖観世音菩薩が本尊と記載されている。
ではこの観音様はどうして生まれたのかというと、昭和4年2月に金子堅太郎氏、頭山満氏、清浦圭吾氏、浜地天松氏、花田半助氏らが集い、「観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん」という「護国大観音建立会」の趣意書を作成し、観音像建立費15万円、付属施設建設費5万円を目標金額とする寄付金の勧募が始められた。
同4月に起工式が行われ、工事が進められた。その過程で建つ場所の関係から立像ではなく、胸像に変更されたことや世界同時不況の影響で昭和9年に工事半ばで中断してしまった。その後第二次大戦などがあり、観音様建立の動きはなかったが、昭和29年になり、東急電鉄のボスでもあった五島慶太氏らが中心となり、財団法人「大船観音協会」ガ設立、観音様建立に向けての動きが再開された。
昭和32年5月18日、起工式が行われ、昭和35年4月28日に落慶式が行われている。総工事費は4千数百万円だったといわれる。東急グループが全面的にバックアップしていたそうである。その後、財団法人ではなく、曹洞宗の包括下にある「大船観音寺」としての準備と手続きを行い、昭和56年11月20日神奈川県より寺院としての認証を受け、現在に至っているとのことである。(以上、ホームページより抜粋)
観音寺には原爆慰霊碑も建立されており、9月下旬(ちょうど今頃)にこの原爆慰霊碑の前に被災者が集い慰霊祭が行われている。あいにくの雨であるが多分今年も今週末に開かれるのではないかと思う。一度、大船駅西口から出てこの寺院をお参りしようと思っている。
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by motokunnk | 2010-09-25 09:00 | 神社・仏閣・城郭 | Trackback | Comments(0)

イチローが10年連続の200本安打達成

10年連続200本安打にあと2本に迫っていたイチローが今日未明に行われたブルージェイズ戦の5回の第3打席でさらりと中前安打をはなち達成したことを朝のニュースが報じていた。
イチローに言わせれば、何でもないことと言うであろうが、他人から見れば大記録であり、これを破る野球人が出現するとは思えない記録である。それほどの記録であるからこそ、マスコミがトップニュースで扱うのであろう。
イチローが10年前にメジャー挑戦したときに、当時のメジャー担当記者からメジャーでヒットを打てますかと質問されたという。これが今では、ヒットがでない日が続くと何故ヒットがでないのかと聞かれるようになった、質問の主旨が変わったことがうれしいとの談話がでていたが、イチローという名前がメジャーで認知された証であるといえる。言い方をかえれば日本人の誇りでもある。
後は、マリナーズが強豪チームに変身し、ワールドシリーズのタイトルを取ることがイチローの残された夢ではないかと勝手に思ってしまっている。
日本では、スポーツ6紙が協同で特集号を出すようであるし、また今朝は号外も発行されたようである。日本中がイチローフィーバーだったようである。私もうれしい限りであるが。

号外はこちら → スポーツ報知の号外
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by motokunnk | 2010-09-24 19:29 | スポーツ全般 | Trackback | Comments(0)

稲荷神社について

我家のそばには伊藤稲荷神社という神社がある。多分、一般の方が住んでいた住居を稲荷神社に改修したのではと思われる。そこで稲荷神社に興味があり調べてみることにした。
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稲荷神をお祭りするために建立するのが稲荷神社であり、総本家は京都の伏見稲荷のようである。確かに神社ネットで調べると総本社は伏見稲荷大社となっており、稲荷神、宇迦之御魂神、倉稲魂命を祭っているようである。
一方で稲荷神社には、こんな伝説もあるようである。あるとき空海が東寺を作るとき、稲荷の山の木を勝手に切り出したため稲荷の神が怒って害をなしたため、空海が謝って、その後逆にこの神社をよく崇敬し、空海の人気が全国に広まるとともに稲荷神社も全国に広がったとも言われている。
このほうが信憑性がるようだが、空海という僧侶を利用しているような気もしていてちょっと信じがたい部分もある。
お稲荷さんのお使いは狐ということになっている。中にはお稲荷さん自体が狐の神様であると思っている人もあるようです。この関連については色々な説がありますが、幾つか紹介すると
・稲荷の神と同体と考えられる御饌津(みけつ)神が誤って三狐神と書かれ、そこから狐が登場した。(「けつ」は狐の意味の古語。今でも狐を「けつね」と呼ぶ地方がある)
・穀物を食べる野ネズミを狐が食べてくれるので、狐を穀物の守り神と考え、そこから結び付いた。
・伏見の地には秦氏が入ってくる以前に狩猟の民が山の神を信仰しており、その象徴が当初狼であったのが、いつか狐に変化して後からやってきた農耕の民たちの神と習合した。
諸説がありどれが本当のことなのかはっきりしない。いずれにしろ稲荷神社が都内にも多数あるのはそれなりの理由があってのことと思われる。これもネット情報から得たものである。
ちょっと調べたいことがあるとネットで検索するとたいていのことはある程度までわかったしまう世の中になってしまった。これはこれでいいのかもしれないが、研究という行為なりがおろそかにされてしまうような気もしている。
ちなみに伊藤稲荷神社には、昭和62年の日付で奉納一覧の石碑が敷地内にひっそりと建てられていた。境内と呼ぶにはせまいが敷地には渋谷区指定の保存樹があり、これらの維持もたいへん費用がかかるので神社建立という道を選択したのではと勘ぐってしまった(違っていたらごめんなさい)。

参考にしたページ → http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/miya/inari.htm
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by motokunnk | 2010-09-23 09:31 | 神社・仏閣・城郭 | Trackback | Comments(0)

中秋の名月

今日は中秋の名月、俗に言う十五夜である。ただ9月の満月は明日23日であるので、必ずしも満月の日が中秋の名月の日ではないようである。
詳しくはこのページが理解しやすいのでそちらを見て欲しい。お月見なるものをしている我家では私の小さい頃はススキを飾り、月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛って、月を見ながらそれをを食べていた。
さすがにここ十数年はススキも飾らないが、唯一、月見団子は近所の和菓子屋に頼んで作ってもらっている。今年もそれを食べて過ごすことにしよう。
さて団子ついでに食べ物つながりでちょっと気になったことをひとつ。通勤で山手線を利用いているのだが、「大人の60秒講座」を楽しみにしている。その中で「ボタモチ」と「オハギ」の違いという質問があった。どちらも彼岸に恒例の食べ物となっている。つくりはももち米をベースにしてあんくるんだものである。「大人の60秒講座」での回答は春は牡丹にちなんで「ボタモチ」と呼び、秋は萩にちなみ「オハギ」と呼ぶというのが正解である。とのこと、ひとつ勉強したようである。ただオハギ、ボタモチ論争はネットでも繰り広げられている。
皆さんも調べてみてはいかがだろうか。
参考 → おはぎとぼたもち、本当の違い
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by motokunnk | 2010-09-22 18:45 | 日記 | Trackback | Comments(0)

祭りの後、大江山の酒呑童子絵馬について

金王八幡宮の秋の祭礼も終わり、静かな朝を迎えている。ただ敬老の日であり、ここはJRAの場外馬券発売所があるので、9時を過ぎると競馬ファンでにぎやかになる土地柄でもある。
さて昨日のブログでも書いたが、大江山の酒呑童子について調べてみることにする。そもそも大江山の酒呑童子とは室町時代の物語を集めた「御伽草子」が出典のようである。「御伽草子」とは、室町時代から江戸時代にかけて作成された短編の絵入り物語、およびそれらの形式のことの総称をいう。室町時代を中心とした中世小説全般を指すこともあるとのこと、そこで大江山の酒呑童子について調べていくことにする。
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大江山とは京都府丹後半島の付け根に位置し与謝野町、福知山市、宮津市にまたがる連山である。標高833mで別称、大枝山・与謝大山・千丈ヶ嶽とも呼ばれる。京都という土地柄か酒呑童子伝説で知られる。また雲海の名所としても知られている。
さて酒呑童子であるが、こちらは京都と丹波国の国境の大枝に住んでいたとされる鬼の頭領のことをいうそうである。各地にある酒呑童子伝説は後半の部分(すなわち鬼の頭領)のことを指している言葉(もしくは人物)であろうと思う。
酒呑童子の姿は、顔は薄赤く、髪は短くて乱れた赤毛、手足は熊の手のようで、背丈が6m以上で角が5本、目が15個もあったといわれる。民話としてのこる「やまたのおろち」以上の怪物として「御伽草子」に描かれている。また彼が本拠とした大江山では龍宮のような御殿に棲み、数多くの鬼達を部下にしていたという。ここからはウィキペディアの引用となるが、「京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。あまりにも悪行を働くので帝の命により摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王により討伐隊が結成され、姫君の血の酒や人肉をともに食べ安心させた上、酒盛りの最中に頼光が神より兜とともにもらった「神便鬼毒酒」という酒を酒呑童子に飲ませて体が動かなくしたうえで寝首を掻き成敗した。しかし首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたといわれている。
頼光たちは討ち取った首を京へ持ち帰ったが、老ノ坂で道端の地蔵尊に「不浄なものを京に持ち込むな」と忠告され、それきり首はその場から動かなくなってしまったため、一同はその地に首を埋葬した。また一説では童子は死に際に今までの罪を悔い、死後は首から上に病気を持つ人々を助けることを望んだため、大明神として祀られたともいう。これが現在でも老ノ坂峠にある首塚大明神で、伝承の通り首から上の病気に霊験あらたかとされている[4][5]。大江山(京都府加佐郡大江町)の山中に埋めたとも伝えられ、大江山にある鬼岳稲荷山神社の由来となっている。」
この様子を示した絵馬が金王八幡宮には2枚セットで奉納されている。きわめて貴重な資料といえるようである。

渋谷区の説明は → http://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/town/kubunka.html#onitaiji
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by motokunnk | 2010-09-20 08:50 | 神社・仏閣・城郭 | Trackback | Comments(0)