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恵比寿という街の由来と豊沢貝塚

恵比寿という地名は明治初期にビール工場が誘致され、そのビール名からとられたものであるということは有名である。では恵比寿という名前の前にはどういう名前でこのエリアは呼ばれていたのであろう。
いつものようにウィキペディアで恵比寿を調べてみると、
「この周辺は江戸時代には、下渋谷村・三田村と呼ばれており、渋谷川と三田用水に挟まれる農村で、大名の下屋敷が点在していた。」とあり、「恵比寿一丁目は山下町、恵比寿二丁目は新橋町および豊沢(とよさわ)町、恵比寿三丁目が伊達(だて)町、恵比寿四丁目が景丘(かげおか)町であった」と地名は変遷している。
伊達町は仙台伊達家の下屋敷があったことからの呼び名であろうし、おおよそ名前の由来については想像できることが多い。
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今回、ふとこのあたりを散策していてみかけた教育委員会の説明プレートについて紹介する。それは、「豊沢貝塚」についてである。遺跡ウォーカーというサイトがあり(何でも知りたいことはジャンル別にサイトが立ち上がっているものである!)、この遺跡の位置や出土品が一覧できる。ちょっとした調べものをするには検索エンジンを利用してキーワードをいれらば結果がわかるという便利な世の中になったものである。
恵比寿三丁目からなだらかな坂を上った先に貝塚のプレートが設置されているのであるが、この坂を和田坂というそうである。豊沢貝塚のある場所には幼稚園や教会があり、豊沢という名前は地元になじんでいるようである。
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ちなみに渋谷区の図書館で豊沢貝塚についてOPAC検索をしてみると、3件の調査報告書が所蔵されていることがわかった。ネットで調べることにすまさず、今度は図書館の資料という現物を目にして調べてみようかと考えているがいつの日になるやら不安もたっぷりである。

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by motokunnk | 2012-02-05 08:37 | 記念碑
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