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2013年 03月 09日 ( 1 )

ヤン・ヨーステンと平和の鐘はオランダつながり?

1ヶ月ほど前のテレビのクイズ番組で、ヤン・ヨーステンという人物のことを知った。なんでも八重洲の名称はヤン・ヨーステンの名前に由来しているとのことである。
確かに八重洲通りの中央分離帯にはヤン・ヨーステンのレプリカが設置されており、八重洲との関係があることがわかる。
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そこでヤン・ヨーステンについて調べてみると
「ヤン・ヨーステンはオランダの航海士、朱印船貿易家。日本名は耶楊子。ヤン・ヨーステンは名で、姓はファン・ローデンスタイン。1598年にオランダ東インド会社がロッテルダムからアジアの極東を目指す航海のために司令官のヤックス・マフが乗組員を集めている時に、ヤン・ヨーステンは応募しリーフデ号に乗組みました。」
1598年6月に5隻の船団はロッテルダム港を出航しました。新大陸アメリカで積荷を銀に換えようとしましたが失敗し、マゼラン海峡を越えて日本を目指し、日本で積荷を銀に換えて、モルッカへ行ってスパイスを買う予定でしたが、マゼラン海峡を通過するとき嵐に遭遇して、船隊はバラバラになりました。トラウ号は東インド諸島でポルトガルに拿捕され、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返しました。残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も遭難、沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となりました。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病の蔓延、インディオの襲撃に晒されたために次々と乗組員を失っていきました。こうして出航時に110人だった船の乗組員は、僅かに24人にまで減っていました。
ヤン・ヨーステンが乗組んでいたオランダ船リーフデ号は嵐に遭遇して、1600年4月19日に大分県の臼杵に漂着しました。自力では上陸できなかった乗組員は臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏みました。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はヤン・ヨーステンらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰ぎました。この間にポルトガル・イエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求しました。結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、ヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムス、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させました。
その後、徳川家康に謁見して信任され、外交や貿易についての顧問となりました。江戸の「丸の内」に屋敷を貰い、日本人と結婚し、耶楊子と名乗りました。オランダ船リーフデ号漂着の成果は幕府がオランダに発行した朱印状、つまり通商許可証でした。1609年にオランダ船が平戸に入港し、それ以降、日蘭貿易が本格的に始まりました。
彼の江戸屋敷は現在の和田倉門~日比谷間の内濠の沿岸に与えられ屋敷を構えました。この地が彼の 名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続きました。現在は、中央区の八重洲 としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っています。」
ということだそうだ。ヤン・ヨーステン、江戸時代初期にひょんなことで日本に漂流したオランダ人が八重洲の地名になって後世にまでその名を残すとは彼本人がビックリしているのではないだろうか。
ヨーステンのレプリカのそばには、中央区の平和の鐘も設置されている。
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「平和の鐘は資料によると1988年3月15日に中央区は世界の恒久平和と人類の永遠の繁栄を祈念し「平和都市宣言」をいたしました。三角形のアーチは、この宣言を記念するモニュメントとして、設置したものです。この平和の鐘は オランダ製で26個のベルによって四季おりおりのメロディを奏でます。」とある。
ヨーステンはオランダ人、この鐘もオランダ製、どちらもオランダに縁があるようだ。
ヨーステンの記念碑はこの他にもリーフデ号などが八重洲地区にあるようなので、次回はそれらをまとめて紹介できたらと思う。
参考URL → ここに歴史あり
by motokunnk | 2013-03-09 08:37 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)