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日比谷公園にあった京橋の親柱

先日のブログで日比谷公園に移された京橋の欄干柱のことを書いた。その際、親柱も移されたが昭和30年代にもとの位置に移されたことを書いた。
その柱を見てきたので写真を掲載する。多分、この柱が数奇な運命をたどりまたもとの場所におかれた親柱であろう。下の写真
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そして、こちらが大正11年に架け替えられた際の親柱であると思われる。ネットで確認するとそのようだが、間違いないのであろうか。
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なおこの11年に建て替えられた京橋の親柱は新宿方面にもあるということを聞いた。今度はそちらを探しに行こうかと考えている。
by motokunnk | 2010-08-20 20:13 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

FeliCaは万能のカードではなかった?

最近、仕事で非接触カードを利用したシステムの検討をしている。俗にいうFeliCaを利用したシステムである。
ご存知の方も多いと思うが、FeliCaはいろいろなところで利用されている。JRのSuicaがその代表例であり、その他にも各種のカードで利用されている。また、複合用途でも利用され、SuicaとANAカードなど、その利用範囲は拡大の一途である。
しかし、誰も彼もがこぞってFelicaを採用し、好き勝手にデータを登録していくと、管理が大変となり、混乱が生じることもまた事実である。Suicaで料金をチャージするが、そのチャージした場所を別の機能が書き換えてしまったら大変である。
そこでFelicaの共通フォーマット推進フォーラムなるものが現れた。日本ではその他にSSFC(Shared Security Formats Cooperation)という団体もある。どちらもFeliCaをより便利に利用しようとする企業が集まっている団体である。今日はSSFCのショールームに行ってきた。
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SSFCのホームページではこのように説明されているので、詳しくはホームページを参照して欲しい。
http://www.ssfc.jp/index2.html
では、1枚で複数のシステムの制御ができることはわかったが、本当にそうなのと疑問を感じてしまった。
マルチテナントビルを考え、そのテナント入居者の社員証がFeliCaだとしよう。当然ビルの入館もそのFeliCaで行いたいと思うはずである。その答えは「○」でなく「?」である。「?」というよりは限りなく「×」に近い。すなわち、1枚のカードで複数のシステムを管理することはできるが、複数種類のFeliCaで1種類のシステムを管理することはできないのである。
すなわち、1:nの管理に強さを発揮することができてもn:1の管理には脆弱であるのがFeliCaといえる。今日SSFCのシステムを見学してきたがそのことを認識したのが大きかった。
といって、ある企業が1社もしくはそのグループでFeliCaを採用することにはメリットがあることも同時に認識したしだいである。
自分でも考えがまとまらず、読んでいて何を言っているのかわからないと思う。わかりやすく修正しようと思うがこれが今感じたことである。
ちなみにFCFのホームページはこちらである。
http://www.fcf.jp/felica/whatsfelica.html
どちらのホームページにもいいことが書いてあるなあ! ただ、これに騙されてはいけない!
by motokunnk | 2010-08-19 18:39 | 最新技術 | Trackback(1) | Comments(0)

堀部安兵衛武庸の碑の紹介

仕事ではないが、よく八丁堀界隈に出かけることが多い。その中で、行く場所は霊岸島付近であるが、すぐそばに亀島橋がある。その袂に紹介する記念碑が建てられている。皆さんよくご存知の堀部安兵衛の記念碑である。
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記念碑自体は、昭和44年(1969)8月に地元の八丁堀一丁目町会が建立したそうである。これによると、安兵衛は京橋水谷町に住んでいたそうで、ここから有名な高田の馬場の敵討ちの助太刀にはせ参じたようである。ただ、当時は乗り物などなく本当にここから高田の馬場まで走っていったのかどうかはわからない。その真相は闇の中である。
亀島橋といえば、赤穂浪士が討ち入りの後、定かではないがこの橋を通過して芝高輪の泉岳寺まで吉良上野介の首を携えて行進したようである。確かに、通過してもおかしくない場所に橋は架けられている。道安兵衛にしてみれば昔住んでいた近所を歩いていたことになる。これも何かの因縁なのかもしれないと感じてしまった。
ちなみに堀部安兵衛武庸は「ほりべやすべえたけつね」と読むようである。
by motokunnk | 2010-08-17 19:26 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

クィーンSと北九州記念の勝利騎手

今日のブログは記事が3本である。その3本目は競馬関連記事について、今注目している騎手が違う重賞に騎乗した2つのレース、その2人の騎手が見事に勝利した。
まずは札幌、怪我から復帰しての初重賞勝利となった武豊について。思えば、桜花賞で騎乗が決まっていたアプリコットフィズとは何か因縁めいたものを感じてしまう。最終追い切りに騎乗する直前の毎日杯での落馬負傷! 
それからのリハビリは思ったより長引いてしまった。夏の札幌で初騎乗の重賞勝利は秋秋華賞に期待が持てる一勝となったのではないか。今後のアプリコットフィズのローテーションが気になる。秋はヴィクトワールピサでの凱旋門賞挑戦が決まっている武豊、怪我に気をつけ、元気な姿で秋競馬を盛り上げて欲しい。
一方、小倉では絶好調の福永祐一騎乗のメリッサが見事に先行馬を差し切り、この馬に重賞初勝利をプレゼントした。前走のアイビスサマーダッシュでは1番人気でシンガリ負けと期待を裏切っていた。福永の談話によれば、単に直線競馬の相性がよくなかったということらしいが、今回のレースはこの談話を証明するか否かに注目していた。
レースは最後の直線で馬群をぬって追い込み、見事に談話の正しかったことを証明した。ただメリッサ自体は小倉との相性抜群であり、これで秋の短距離路線の主役となったとは言いがたい。次走でも強いところを見せれば、本格化したと思うがこちらは次が正念場のようである。福永といえば、土日の新馬戦でともに1番人気馬で連勝している。昔から2歳戦は強かったが、今年の強さは際立っているように思える。この勢いが秋の阪神でも続くかどうか見ものである。
ちなみにメリッサの父はホワイトマズル、福永のお手馬ではビハインドザマスクが有名、こちらも牝馬の短距離馬であった。


クィーンS → http://www.sanspo.com/keiba/news/100815/kba1008151546022-n1.htm
北九州記念 → http://www.sanspo.com/keiba/news/100815/kba1008151603023-n1.htm
by motokunnk | 2010-08-15 17:05 | スポーツ全般 | Trackback | Comments(0)

日比谷公園の雲形池と鶴の噴水

日比谷公園のシリーズも今回で3施設(回目)である。今回は鶴の噴水をとりあげる。こちらも説明板が設置されており、その説明によれば、明治38年ごろに現在の東京芸術大学・津田信夫、岡崎雪明に依頼製作し出来上がったものとのことである。
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今日は65回目の終戦記念日(何故、敗戦といわないのか子供の頃から不思議に感じていた、どなたかそのわけを知っているなら教えて欲しい)だが、第二次大戦中の金属回収のため、台座の銅が石に変更されてしまった。東京では記念式典が開催されている。その一方で道を隔てた靖国神社には閣僚の参拝はないという。政教分離なのかどうかはわからないが、総理はニュースでは軽井沢静養から武道館まで来たそうである。ちょっと足を伸ばせばよいのだから、神社参拝をしてもいいのではないかと思う。ただこれは一個人の考えで、マスコミ等は面白く、書き立てるのであろう。
さて噴水の話に戻るが、鶴の噴水は都市公園の中では3番目に古い噴水ということである。一番目は長崎諏訪神社、二番目は大阪箕面公園であるそうだ。
大阪府といえば、自治体運営の施設見直しで有名だが、この公園も指定管理者が交代していた。最近は話題となることが少ないが、昨年、一昨年は随分話題となったものである。その後の検証はいったいどうなったのか、マスコミで特集して欲しい。
旧管理者のページ → http://www.osaka-park.or.jp/hokubu/mino/main.html
大阪箕面公園 → http://www.mino-park.jp/
長崎諏訪神社 → http://www.osuwasan.jp/index.html
話題はあらぬ方向にいってしまったが、機会があれば、日本最古の公園内の噴水、2番目の噴水を訪ねてみたい。ただいずれの公園のホームページにもそれらしきことは書かれていないので果たして本当に噴水があるのかどうか、そちらも心配である。
by motokunnk | 2010-08-15 14:14 | 公園・庭園・遊歩道 | Trackback | Comments(0)

富沢祥也、ヘレス以来2度目のポールゲット

富沢祥也といってピンと来る人はモータースポーツ、特にMotoGP好きな人であろう。今年20歳をむかえるある意味若手バリバリのライダー(ヨーロッパ、特にMotoGPではスペインのライダーが多く参加しているが彼らの歳は10代後半が多い)である。
富沢祥也は今年250ccクラスからMotoGP2クラスに変更されたMotoGPクラス予備軍に参戦しているライダーの一人である。昨年からMotoGPにはフル参戦していたが、青山博一の陰に隠れてあまり目立った走りを見せていなかったように思ったが(私個人の感想だが)、玄人の目には光るものがあったのであろう。今年は、昨年同様にチーム・CIPからエントリーしている。
その富沢祥也が開幕戦で初優勝し、大ブレイクしたのは記憶に鮮明である。第2戦では自身初めてのポールポジションを獲得するなど、このまま行けば青山に続く日本人ライダーのチャンピオン誕生かと思っていたが、その後は失速状態であった。
そして、MotoGPの夏のわずかなインターバル明けのチェコGPで自身2回目となるポールポジションを獲得した。CATVで朝の放送を見ていたが、安定した走りで危なげなくポールを獲得している。MotoGP2クラスは今年が初年度とあって、40台近くが参戦し、毎戦予選から激戦、予選タイムも0.1秒単位に数名がひしめき合う状態が多い。その中で、2位に0.232秒差は圧倒的だと感じた。
本人のブログによると、勝とうと思っても勝てるレースではないといっているが、十分勝機はあると思う。ぜひ優勝目指して頑張って欲しい。
ちなみに
公式予選の結果 → http://www.motogp.com/ja/Results+Statistics
富沢祥也を知りたいひとは
富沢祥也のオフィシャルホームページ → http://www.shoya48.com/
を参照あれ!
MotoGP2クラスに参戦しているもう一人高橋裕紀は5番手と惜しくもフロントローを逃している。残る手島雄介は29番手に沈んでいる。125ccクラス参戦の小山知良は8番手、MotoGPクラスではペドロサがポールポジションを獲得、何と2番手にはヤマハのセカンドチームであるテック3のベン・スピースがはいっている。ロレンゾ、ロッシのワークスヤマハ勢を抑えてのフロントロー獲得は見事である。
夕方からの決勝レースが見逃せない。
by motokunnk | 2010-08-15 08:35 | スポーツ全般 | Trackback | Comments(0)

日比谷公園と京橋の欄干柱

昨日に引き続き、日比谷公園内で見つけたものについての紹介である。イチョウ並木を過ぎ、鶴の噴水がある池に向かう途中に説明板とともに橋の欄干柱を見つけることができる。どこの橋のものか、説明板を読んでみると何と京橋のものではないか。
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私事で恐縮であるが、私の勤務している会社の本社が元あった場所である。今は移転して銀座、京橋界隈には行っていないが、なつかしい地名でもあり、15年近く通勤した土地でもある。
京橋については、橋の名がつくとおり、江戸時代から日本橋と同様に有名な橋であったそうである。それが昭和34年に下を流れる京橋川の埋め立てにより橋そのものが撤去されたという。
この欄干柱はその前、大正11年、橋の架け替え時にここに移されたものであり、当時は親柱も移された。その後、昭和9年に京橋の橋台地が整備された際にそちらに移されたと説明板に記述されていた。
なるほどそういう歴史があったのかと認識したしだいである。東京には私の知らない歴史がまだ随所にあるのだなあと感じてしまった。今度は「京橋の親柱」を探しにいってみよう。
by motokunnk | 2010-08-14 08:26 | 公園・庭園・遊歩道 | Trackback | Comments(2)

日比谷公園のイチョウ並木

先日、日比谷公園を散策した。日比谷公会堂には来たことがあったが、実際公園内に立ち入ったのは20数年ぶりのことである。一昨年以来話題となることの多い公園であるが、じっくり見てみると意外に日本初とか、珍しいものが多々ある。
ちょっと歴史を紐解いてみると、江戸時代は佐賀鍋島家、萩毛利家などの上屋敷が置かれており、明治時代となり陸軍近衛師団の練兵場となった。の後、本多静六と本郷高徳によって「都市の公園」として設計され、1903年(明治36年)6月1日に日本初のドイツ式洋風近代式公園として開園した。園内には各所に説明板があり、初めて訪れる人にとってはありがたい仕組みとなっている。
そして今回は、イチョウ並木についての紹介である。
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園内松本楼の前にイチョウの木が植わっている。その木の説明には、イチョウはジュラ紀から生息していた樹木で生きた化石といわれている(初めて知った!)。
平瀬作五郎博士によるイチョウの精子の発見も紹介されている。平瀬なにがしを調べてみると
安政3年1月7日(1856年2月12日) - 大正14年(1925年)1月4日)は、明治・大正期の植物学者とある。
植物学に興味をいだき、東京大学植物学教室の助手の時代にイチョウの精子を世界ではじめて確認した。なかなか好奇心旺盛な人物であったようである。
平瀬作五郎の生涯はこちらに詳しくあるようだ。「イチョウ精子発見」の検証「平瀬作五郎の生涯」
さてイチョウ並木であるが、日比谷公園に移築されてりっぱに育っている。
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なんでも日比谷公園の設計者である本多静六博士が、明治34年、現在の日比谷交差点にあったイチョウの大木を自分の首を賭けても移植を成功させてみせるとし、見事日比谷公園内に活着させたとのことである。
日比谷公園に行かれたさいはぜひご覧あれ。

日比谷公園の紹介は → http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index037.html
by motokunnk | 2010-08-13 08:33 | 公園・庭園・遊歩道 | Trackback | Comments(0)

天声人語と日航ジャンボ機墜落事故

いつ頃からか記憶はないが、朝日新聞の天声人語を毎朝読む癖ができてしまった。天声人語は単行本となるぐらい人気があり、サラリーマンを問わず万人に愛読されているコラムである。
今日の天声人語は流星のことからはじめられた。夏の夜空を眺めていると流れ星を見かけることがある。私も大学時代に上高地に旅行した際に遭遇といっては大げさだが流れ星を見つけた記憶がある。
8月12日は日航ジャンボ機墜落事故が起きた日である。25年前の今日夕方TVから羽田発伊丹行きのジャンボ機が行方不明となったとの放送があり、その後に墜落したとの報道がなされた。ダッチロールをいう言葉を初めて耳にした事故でもあった。
数多くの乗客の遺書が見つかり、生きて死を迎えなければいけない数分間、人は何を考えて何を残さねばいけないのかを痛切に考えさせられた事故でもあった。幸いなことに生存者もおり、今は30歳代後半か40歳前半だと思われる少女がヘリで救出される姿に安堵した記憶がある。
今日の天声人語では、公開されなかったと思われる乗務員の遺書が記されている。「おちついて下さい ベルトをはずし 身のまわりを用意して下さい 荷物は持たない........」このメモ書きの持ち主は重要な機内放送を任される最後部左側に乗務していた新婚だった対馬祐三子さん(享年29)だそうである。どんな気持ちでメモを書いたのであろうか、気持ちを落ち着かせるためだったのかもしれない。
使われなかったメモ書きは次のような紹介を天声人語ではされている。「倒産し、再建にもがく日航に欠かせないものを伝えている。どんな状況でも乗客の安全と利便に尽くすプロ意識である。御巣鷹こそ、語り継ぐべき負の遺産だ。」まさしく教訓は次の世代に活かされなければ意味がない。日本の大手航空会社はこの事故以来死亡事故ゼロだそうで、この教訓をしっかり活かしている。
今日は現職の大臣では初めて前原国土交通大臣が御巣鷹山慰霊登山に参加するという。事故を再発させない、風化させないという思いもあるのであろう。
最後に今日の天声人語はこの一文で締めくくられている。「樹林に炎が揺れる尾根に達したのは、報道では一番早く墜落の2時間10分後。再度の上空取材を終えて日付が変わった帰途、同乗の整備士はたくさんの流れ星を見た。一瞬の輝きに託された、最期の叫びを忘れまい。」

今日の天声人語は → http://www.asahi.com/paper/column20100812.html

※文中の太赤字部分は天声人語から引用
by motokunnk | 2010-08-12 09:04 | 日記 | Trackback(29) | Comments(0)

竹久夢二居住地跡の紹介

東急本店から東急ハンズへ行く道の右側に竹久夢二居住跡の石碑がある。文献にによると大正10年夏にお葉(夢二が名付ける・本名は佐々木カ子ヨ)と渋谷に所帯を持つとある。先日紹介した国木田独歩の場所からは歩いて2~3分の場所である。
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多くの叙情画集や「宵待草」の作詞で高まった人気も一段落した頃のことだ。当時ここに住んでいた歌人の西出朝風(ちょうふう)が、自分の隣の家を紹介したとのこと、ちなみにこの朝風とは口語体短歌の創始者という人物で、夢二のパトロンの義理の弟でもあった。
この家の様子を夢二は自伝的画文集「出帆」の中で次の様に描いている。
『…瓦斯燈のように頭でっかちでのっぽの家だったが、二階の窓下の木立の中から川瀬の音が聞こえてきた。すぐ隣が風呂屋で夜遅くまで流しの音がしたりして「まるで温泉へいったようだ」と友達が言った…』
この風呂屋というのが月の湯であろう。間取りは二階四畳半、一階六畳四畳半三畳というささやかなものであったとのことである。
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渋谷での暮らしも長くは続かず、大正13年暮れ、下松沢村松原(現在の世田谷区松原)に移り住んだとある。約3年の短い暮らし中、夢二はここで何を考えたのであろうか、私のような凡人にはとても想像できない。
by motokunnk | 2010-08-11 10:18 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)