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散歩を楽しく/清水谷公園の桜

今日、赤坂付近に出かかる用事があり昼食をとった後、目の前の清水谷公園を散策した。桜も今週になりようやく花を咲かせるようになり、清水谷公園の桜も満開ではないが、お花見にはちょうどよい咲きっぷりで昼休みということもあり、サラリーマンやOLが花見にきていたようである。
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場所柄か、外人観光客もおり記念写真をとっている姿を見受けた。知らなかったがこの公園には大久保利通暗殺(紀尾井坂の変というそうである)の場所の近くということもあり、大久保利通哀悼碑が建てられ祀られていた。
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八重も含めて桜が咲いているのを見て心が和む午後のひと時であった。

ウィキペディア → 清水谷公園
ウィキペディア → 紀尾井坂の変
by motokunnk | 2012-04-04 18:50 | 公園・庭園・遊歩道 | Trackback | Comments(0)

恵比寿という街の由来と豊沢貝塚

恵比寿という地名は明治初期にビール工場が誘致され、そのビール名からとられたものであるということは有名である。では恵比寿という名前の前にはどういう名前でこのエリアは呼ばれていたのであろう。
いつものようにウィキペディアで恵比寿を調べてみると、
「この周辺は江戸時代には、下渋谷村・三田村と呼ばれており、渋谷川と三田用水に挟まれる農村で、大名の下屋敷が点在していた。」とあり、「恵比寿一丁目は山下町、恵比寿二丁目は新橋町および豊沢(とよさわ)町、恵比寿三丁目が伊達(だて)町、恵比寿四丁目が景丘(かげおか)町であった」と地名は変遷している。
伊達町は仙台伊達家の下屋敷があったことからの呼び名であろうし、おおよそ名前の由来については想像できることが多い。
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今回、ふとこのあたりを散策していてみかけた教育委員会の説明プレートについて紹介する。それは、「豊沢貝塚」についてである。遺跡ウォーカーというサイトがあり(何でも知りたいことはジャンル別にサイトが立ち上がっているものである!)、この遺跡の位置や出土品が一覧できる。ちょっとした調べものをするには検索エンジンを利用してキーワードをいれらば結果がわかるという便利な世の中になったものである。
恵比寿三丁目からなだらかな坂を上った先に貝塚のプレートが設置されているのであるが、この坂を和田坂というそうである。豊沢貝塚のある場所には幼稚園や教会があり、豊沢という名前は地元になじんでいるようである。
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ちなみに渋谷区の図書館で豊沢貝塚についてOPAC検索をしてみると、3件の調査報告書が所蔵されていることがわかった。ネットで調べることにすまさず、今度は図書館の資料という現物を目にして調べてみようかと考えているがいつの日になるやら不安もたっぷりである。

遺跡ウォーカー → トップページ
by motokunnk | 2012-02-05 08:37 | 記念碑 | Trackback(29) | Comments(0)

庚申塔あれこれ

明治通りを渋谷から恵比寿方面に歩いていくと、渋谷川に架かる数々の橋を見ることができる。以前このブログで紹介したことがある。その橋の中に「庚申橋」という名前の橋がある。その橋の袂にはご覧の庚申塔が祠にはいって祀られている。
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横には渋谷区教育委員会の説明板が掲示されており、それによるとこの庚申塔に記載されている個人名は多数の地域からなっており(名前が記載されているものもあるがこのように多数あるのは珍しいらしい)その地名も赤坂、芝、池袋、目黒、世田谷、荻窪と多岐にわたっておりこの地が重要な交通路であったことが伺える。
代官山交差点付近にもこちらは地蔵ではあるが同種のものが建てられており、江戸時代からこのエリアが交通の要所であったことが伺える。
話が毎度のことであるが横道にそれてしまった。今回調べたかったことについて書いていくことにする。それはタイトルにもある「庚申塔」についてである。
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庚申塔については、広尾にある「広尾の庚申塔」脇の港区教育委員会説明板が詳しいのでそちらから引用すると
「庚申信仰は、庚申の夜に人の体内に住む三尸虫が、眠っている間に体内を抜け出して、天帝にその人の罪科を報告して生命を縮めるといわれているため、眠らずに一夜を明かすもので、講の形をとって地域住民の交際の場となっていました。庚申塔は庚申信仰を具象的に表現する塔で、室町時代後期以降盛んに各地に建てられました。」
とある。これによると中世の地域住民の井戸端会議の場所であったことがうかがえる。それで各地に庚申塔が残されているようだ。また別のサイトの説明によると
「明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。」
とある。それでこのような供養塔が神社にまとめて祀られている光景を見かけることも納得である。豊栄稲荷神社の庚申塔もこのような理由によりまとめられたようである。

庚申塔その1 → いつものウィキペディア
庚申塔その2 → 庚申塔というページ
庚申塔その3 → 庚申塔物語(章になっており解りやすい)
広尾の庚申塔 → 広尾の庚申塔(港区のページから)
by motokunnk | 2012-01-15 09:11 | | Trackback | Comments(0)

登録文化財の良し悪しとは?

我家の周りの古い建物について、このようなマークがつけられているものがある。
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読んで字のごとく、登録有形文化財である。この文化財の登録制度について考えてみたい。
まず登録文化財について調べてみるといつものようにウィキペディアには次のように書かれている。
「登録有形文化財(とうろくゆうけいぶんかざい)は、1996年の文化財保護法改正により創設された文化財登録制度に基づき、文化財登録原簿に登録された有形文化財のことである。登録対象は当初は建造物に限られていたが、2004年の文化財保護法改正により建造物以外の有形文化財も登録対象となっている。登録物件は近代(明治以降)に建造・製作されたものが主であるが、江戸時代のものも登録対象になっている。」
そして制度自体が生まれた背景も書かれており興味深い記述がある。
「第二次大戦以降の日本においては、急激な都市化の進展などにより、近世末期や近代以降の多種多様な建造物が、その建築史的・文化的意義や価値を十分認識されないまま破壊される事例が相次いだ。(中略)しかし、急激に消滅しつつある近代の建造物の保護にあたっては、国レベルで重要なものを厳選する重要文化財指定制度のみでは不十分であり、より緩やかな規制のもとで、幅広く保護の網をかけることの必要性が議論された。こうして、重要文化財指定制度を補うものとして創設されたのが、文化財登録制度であり、登録された物件を登録有形文化財と称する。」
要は都市開発が進んでいくにつれて明治、大正、昭和初期段階に建設された(建築的に)価値のある建物が壊されていくことを防ぐ意味から制度は作られたといっていいのではないか。
文化財となると各種の優遇制度があり、その恩恵を受けられるようだが、その建物自体、改修することは許されていないようである。大阪市にある文化財指定を受けた図書館では釘ひとつ打つことができないと担当者がぼやいていた。また我家のそばには旧朝倉住宅(これも文化財)があるが、階段が急なわりにてすりなどはつけられず、また庭園も文化財指定されているが、こちらも手すりなどは一切設けられていない。ユニバーサルデザインが標榜され、一般の公開施設にはバリアフリーが常識となっている昨今、文化財指定を受けた公開されている施設では必ずしもバリアフリーとはなっていないようである。
自治体として、登録文化財の数をきそうのであれば、どんどん増やしていくのがいいであろう。ただむやみに増やしていくことが本当にいいことなのかはよくわからない。
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渋谷区立広尾小学校の建物は登録文化財指定を受けている。学校のホームページにも記載されているが果たして校舎として利用した場合使いやすいかどうか、そのあたりのことは書かれていない。
また温故学会も登録文化財である。
登録文化財 → ウィキペディアより
広尾小学校 → 文化財としての広尾小学校
関連するブログ → 温故学会について書いている
by motokunnk | 2011-11-08 20:07 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

散歩を楽しく/仕事が一段落したので

客先に収める仕事が一段落したので、ちょっと仕事帰りにぶらついてみることにした。行った先は鶴岡八幡宮である。大船で仕事をしていたので、横須賀線で2駅である駅を降りて八幡宮へ向うことにした。その交差点で1軒の書店を見つけたのだが、大船駅前にあった本屋さんの本店のようである。
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8月に大船の支店は閉店したしまった。やはりいくら駅前といえども床面積がそれほど広くない書店の生き残りは難しいのかもしれない。大船の支店跡はコンビ二が営業を開始していた。話を八幡宮に戻すことにしよう。
私が八幡宮に詣でるのは2回目のような気がする。子供のときに1度お参りしたことがあるが、それ以来のことだと思う。参道を歩いて気付いたのだが、車道の真ん中に砂利が敷かれた歩道があるのはいいが、砂利ゆえに歩きにくさがある。しっかり舗装された道を歩きなれているせいかもしれないが、お年寄りなど参拝にくるであろうから一考したほうがよいのではと思う。などと思っていると、信号があり、いよいよ八幡宮の敷地内にはいるところに砂利のため歩きにくくなっていますとの八幡宮からのおことわりが書かれていた。ちゃんと考えているのだなあと変なところで感心してしまった。
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さて八幡宮はホームページにあるように、「康平6年(1063)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まり」だそうである。そういえば先日のニュースで古都鎌倉も世界遺産に申請することが決定したとの報道があった。武家の街としての申請となるそうで、文化遺産としての価値をどこに見出すか、地元や国も苦労しているようである。
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さて本殿はご覧のような急な階段を登らなければならないが、一応左右に手すりのついた階段も用意されており、お年寄りや私のように足が若干不自由なものにとってはありがたい。
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数年前に強風で根元から倒れてしまった大銀杏の木も幹を移植してあり、その幹や元の根の部分から新芽が元気よく伸びだしていた。大きくなるには数年以上かかるそうであるが、やさしく見守ってあげることが重要と思う。さて休みでもないのにけっこうな人がお参りにきていた(私もその一人ではあるが)。皆さんガイドブック片手に見学していたが、私は思い立ってきたので事前勉強は何もなし、観光ガイド買ってしっかり読んで見所を把握してくればよかったと後悔したしだいである。

鶴岡八幡宮 → 公式ホームページ
by motokunnk | 2011-09-29 20:42 | 神社・仏閣・城郭 | Trackback | Comments(0)

散歩を楽しく/高輪番外編・明治学院の重要文化財

昨日のブログで別の機会にと書いた明治学院キャンパスに建つ3つの施設について私なりのコメントを書いていくことにする。
3施設とも国もしくは港区の重要文化財に指定されている。
まずは1998年に国の重要文化財に指定されたインブリー館を見ての感想から。
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インブリー館自体は、宣教師の住宅として1889年頃に建てられたそうである。当時は学院構内に宣教師住宅は複数棟建てられていたそうであるが、現存するのはこの建物だけで、長くウィリアム・インブリー博士が住んでいたのでこのように呼ばれるようになったという。
建築様式は19世紀後半のアメリカ住宅様式を反映したものだそうで、1964年に現在の場所に曳屋され、1995年から保存改修工事がなされたそうである。そして明治期に来日した外国人宣教師用の洋風住宅の最初期の事例として歴史的価値が認められ、1998年に重要文化財に指定された。
室内は見ていないが外観から想像する限りでは、2階建ての使い勝手のよさそうな住宅のようである。暖炉もあるようで、煙突がみえる。
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さてお次は記念館についてである。こちらは1890年に神学部校舎兼図書館として建てられた。島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の中で
「新しく構内に出来た赤煉瓦の建物は、一部は神学部の教室で一部は学校の図書館に成つて居た。またペンキの香のする階段を上って行つて二階の部屋を出ると、そこにたくさん並んだ書架がある。一段高いところに書籍の掛りも居る。・・・書架で囲はれた明るい窓のところには小さな机が置いてある。そこへ捨吉は、好きな書籍を借りて行って腰掛けた・・・」
と書かれているのがまさにこの建物のことだそうだ。
1894年の地震で大破し二階部分を木造に改造したという。また関東大震災では煉瓦の大煙突が崩壊、1966年道路拡張のため現在地に移動するにあたって復元したそうだ。今は図書館ではなく、記念館として利用されているようである。第二京浜沿いの一番目立つ場所に建てられており、知らない人でも一度は目にしたことがあるのではないかと思う立地にある。
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そして最後に紹介するのが礼拝堂である。これは現在も礼拝堂として利用されており、唯一建築当時から利用目的が変化していない建物である。前2施設から20年近くたち、1916年に建てられた。ということは関東大震災以降に建設されてことになる。
急勾配のスレート葦の屋根、縦桟の多い窓のデザインなどにゴシック建築の特色がでている。この建物は新築当時から改修、増築が行われたそうで、南北に長い長方形が新築当時、東西の両袖が付けられのが増築工事、その結果全体の形はヨーロッパの伝統的な聖堂の平面である十字形となった。屋上の尖塔は十字形の交叉部に立ち、これも伝統的な聖堂の形となっている。
増築を重ねて、ゴシック建築の聖堂に近づいた建物といえそうだ。日曜ということもあり、中からオルガンの音色が聞こえてきた。礼拝の真っ最中であったのかもしれない。

最後に明治学院に限らず、都心にある大学キャンパスは週末になると国家試験などの会場として借り出されているようで、訪問した際も簿記検定試験会場となっていた。キャンパス内は学校法人関係者以外は立ち入り禁止が原則であるが、試験会場となれば一般の人も入れるので、試験会場として貸し出されることは散歩でキャンパスを歩くものいとっては好都合である。

参考としたサイト → 明治学院歴史的建造物
他にもデジタルアーカイブのページもあり、明治学院創立150周年だそうだが、歴史を大切にする姿勢が垣間見えるホームページであった。

私の関連ブログ → 散歩を楽しく/高輪にはいろんな建物が
by motokunnk | 2011-06-15 20:19 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

散歩を楽しく/高輪にはいろんな建物が

日曜日に品川駅を降りて高輪方面へと散策の旅(ちょっとオーバーな表現だが)へ出かけた。いつもは下車することがない品川駅であるが、久しぶりに下車し、高輪口にでると、元ホテルパシフィックの建物が出迎えてくれる。そういえば大学の謝恩会はこのホテルだったような気がする。
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高輪プリンスホテルを目指そうと思っていたが、第一京浜に面して神社があるのを発見、早速お参りすることにした。高山稲荷神社というそうで、石燈籠(おしゃもじさま)が祀られている。何でも後で調べたら「縁結び」のパワースポットとして有名だそうである。
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そのせいかどうかはわからないが、ほんの数分の間であったがお参りするカップルがいた! やはり噂は本当なのかもしれない。
さて、高輪プリンスホテルに向う坂道を登ること数分、高輪プリンスホテル本館が見える位置まで登ってきた。
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本館の脇には現在は貴賓館として利用されている旧竹田宮邸がある。これもいかにも大正時代の建築というイデタチをしている。どうも東京建築さんぽマップの著者はこのような建物が好きらしい。と思いながらお目当ては明治学院なので先を急ぐことにする。
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途中、高橋教会ではちょうど日曜礼拝の最中のようで賛美歌の音色が聞こえてきた。高橋教会の隣は何と、高野山東京別院! キリスト教と仏教混在というのもなかなか面白い。
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そしてすぐの交差点にはこの本でも取り上げられている消防署がある。本の紹介文は「遊びがあってなかなか楽しい」とある。確かに火の見やぐらにあがるところには朝顔を逆さにしたようなポールがあったりなかなか遊び心に富んだ建物だと感じた。
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そしてその前には、「二本榎」が建っている。何でも江戸時代からこの榎がこの付近の目印だったそうである。由来のプレートにはそのようなことが書かれていた。さていよいよ明治学院大学である。ここには重要文化財となっている建築物が3軒ある。
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この建物についてはまた別の機会に説明するとし、今回は写真のみ紹介とする。どれも名建築だと思う。そして白金方面へ歩を進め、八方園が旅の終点、「壷中庵」を見て帰宅することにした。
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そうそうここまで来たのだから先日撮りそこねた東大の近代医科学記念館の写真を撮ることにしよう。これがその写真である。
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撮り損ねた全景についての関連ブログ → 散歩を楽しく/白金番外編・北里柴三郎で触れている
私の関連ブログ → 散歩を楽しく/高輪番外編・明治学院の重要文化財
by motokunnk | 2011-06-14 19:44 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

旧朝倉家住宅を訪ねて

昨日のブログで予告したが、今日は旧朝倉家住宅について書くことにする。以前から代官山交番の前に旧朝倉家住宅があることは知っていたが、中に入ったのは今回がはじめてである。
国の重要文化財の指定を受けているだけあって、管理は行き届いているようである。見学者もちらほらおり、ちょうど閑散と混雑の中間ぐらいの人出といったほうがよいかもしれない。受付で観覧料を支払い、栞をもらってあたりを見ると、まず附属屋が目にはいる。
母屋が建設された時から車庫として建設されたそうである。その後、管理棟として改造されたそうであるが、現在は車庫として復原されている。
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さて実際に今回の主目的である旧朝倉家住宅の見学に移ることとする。玄関で下足した家に入ると説明プレートに見学順路が記載されている。まず、右にある応接間を見てから階段をあがり、2階にある広間を見学せよと順路は言っている。その通りに見学することにする。
応接間を見て階段を登ることにする。重要文化財ということもあり、バリアフリー対策はとられていないので手すりはなくしかもかなり急なので足元に十分注意して無事に2階に到着。
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まず窓からの眺めのよさに感嘆である。上の写真は庭園を写したものであるが、昔は遠く富士山が見えたというのは事実であろう。この近くには関東の富士見100景に選ばれた地点もあり、あながちパンフレットにある説明に納得した。
2階の広間を眺めるとそこには懐かしい光景が広がっていた。床の間の隣にある「違い棚」である。私の生まれ育った家にも「違い棚」がある日本間があったのでそれを思い出し懐かしくなってしまった。朝倉家ほどりっぱでも広くもない家であったが
建てられたのはほぼ同年代と聞いているので、書院造りを模試て建設されたのだと思う。さて広間を抜けて階段を降り1階に戻る。りっぱな中庭がある。この時代の上流階級の家には中庭が必須条件であったと聞く。中庭を見ながら談笑!、何ともお洒落ではないかと思う。
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さて中庭に面して(というか廊下を挟んで)杉の間と命名された和室が3室ある。そこにも違い棚があり、懐かしさのあまりここでも写真にしてしまった。旧朝倉家住宅はストロバを利用しなければ写真撮影OKとのこと、うれしい配慮である。さて会議室を抜け玄関より庭園見学と洒落込むことにする。
庭園は、崖線[がいせん]という地形を取り入れた回遊式庭園となっている。
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確かに崖といえなくもない結構急な坂を下りて行くはめになってしまった。足元注意と言われてもつかまるものもないので転ばぬよう細心の注意を払って庭園見学としたしだいである。
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灯篭や水花など見るべきものはたくさんあり、庭からみる母屋もまた美しい。秋にはモミジが満開となるそうであるから、これを機会にまた訪れようかと思う、そんな旧朝倉家住宅であった。
渋谷区のホームページにも旧朝倉家住宅を紹介したページがあり、そこにはで各所の説明がPDFにてダウンロードできるようになっているので、見学の際に持参するのもいいかもしれない。

旧朝倉家住宅 → http://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/asakura.html

1話目(3部構成) → 散歩を楽しく/東京建築さんぽマップ
3話目(3部構成) → 散歩を楽しく/代官山番外編

代官山番外編 → 散歩を楽しく/雨上がりの代官山と紫陽花散策
by motokunnk | 2011-05-10 20:25 | 公園・庭園・遊歩道 | Trackback(175) | Comments(0)

憲政記念館と日本水準点

先日所用で国立国会図書館まで出向いた際、時間に余裕ができたので隣接する日本水準点を見に行こうと憲政記念館まで足をのばした。
記念館は無料で公開されているが、受付では記帳しなければならない。ただ、年代と性別、どこから来たのか、また何人で来たのかを記入するだけでよく、多分来館者統計として利用するのではないかと感じた。一応税金で運営されているわけであるから投資対効果を説明できる資料として活用するのであろう、ただし日中であたので来館者はほとんどいなかった。
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受付でパンフレットをもらい、2階から展示を見ていくことにする。まず憲政記念館の歴史であるが1960年に、憲政の功労者である尾崎行雄を記念して、尾崎記念会館が建設された。その後これを吸収して現在の憲政記念館となったのが、1970年議会開設80年の年である。尾崎行雄の銅像があるのも納得である。展示物はパンフレットやホームページに詳しく説明されているのでそちらの方が私見がなく公平であると思う。感想としては、ひとつの考え方に固執しないで世の中を客観的にみて展示が構成されている点は評価してよいのではないかと感じた。憲政というと時の権力者に威光により表現などがブレてしまいそうだが、そのようなことがない点は好ましいと感じた。
さて、展示コーナーを全部見るのに時間がかかってしまい、肝心の目的である日本水準点を見る時間が少なくなってしまった。日本水準点は正確には日本水準原点標庫というそうである。横に東京都教育委員会設置の説明プレートにはそのように記載されている。
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建物といっては語弊があるかもしれないが、1891年に、ローマ神殿の形式を持つ古典主義建築として建設されている。水準点については
「土地の高さは、平均海面を基準に取りますが、実用的には地上のどこかに、高さの基準となる点を表示しておく事が必要です。
このため、明治24年(1891年)に水準原点がつくられ、当時、隅田川河口の霊岸島で行われた潮位観測により、水準原点建物内部の水晶板のゼロ目盛りの高さが、東京湾平均海面上24.500mと決定されました。」
「水準原点のあるこの地は、山の手の台地で、原点の礎石は、地下10mあまりの強固な地層から築いてありますので、下町の沖積地のように甚だしい地盤沈下を起こすおそれはありません。
しかし、大正12年(1923年)の関東大地震では、この付近一帯に相当の地殻変動があり、測量の結果、原点の高さは東京湾平均海面上24.4140mと改定され、この値が今でも使われています。」
と国土地理院のホームページで説明されている。庭園にはこの他に時計台が建設されており、説明では三権分立の象徴として三面から構成されている。内堀通りからも見えるので目にしたことはあるはずと思う。
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また庭園の一角には「ハナミズキ」が多数植えられている。これは東京市長でもあった尾崎行雄がワシントンに桜の苗木を送った返礼として米国政府から贈られたものだそうでこの地に尾崎行雄記念館建設の際に改めて贈られてきた苗木を植えたそうである。りっぱに育ってみる人を歓迎してくれている。先日行った東京都庭園美術館にもワシントンに送った桜の苗木があったが、何だかゆかりのある場所を知らないうちに訪問していたようである。

日本水準原点のページ → 国土地理院内の説明
by motokunnk | 2011-05-08 08:55 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

メーデーは雨模様・庭園美術館見学記

5月1日はメーデー、労働者の祭典の日であるが、今年のメーデーはどんな盛り上がりを見せるのであろうか。思えば新入社員のときは会社の労働組合から半強制的に年休を取らされてメーデーに参加した記憶がある。あの日は今日とは違い、朝から土砂降りの雨だったと記憶している。「日曜日は休ませろ!」などとシュプレヒコールをした思い出がある。
さて昨日、東京都庭園美術館に行ってきたのでそのことを紹介したい。目黒駅から徒歩数分、自然教育園(ブログで紹介している)に隣接する形で庭園美術館は建てられている。ご存知の方も多いようにもとは香淳皇后の叔父にあたる朝香宮鳩彦王が1947年の皇籍離脱まで暮らした邸宅であった建物である。その後、吉田茂によって外務大臣公邸(ただし外相は総理の吉田が兼務していたので実質的には総理大臣仮公邸)として1947年から1950年にかけて使用された。1950年には西武鉄道に払い下げられ、以後その管理下で国賓公賓来日の際の迎賓館として使用された。1981年に東京都が買い取り、1983年(昭和58年)に都立美術館の一つとして一般公開され現在に至っている。
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このように明治・大正に建築され現在に残っている建築物の多くはいい悪いは別にして、宮内庁関連の施設のようである。さて昨日は天候もよく開園前には数人の来館者が待っているようで、中には待ち合わせをしている人もいるようであった。入園料(庭だけ見る人もいるようで別料金が設定されている)を払い園内に入ることにする。東京都教育委員会の説明プレート(美術館は東京都の有形文化財となっている)の説明を読み、舗装された道路を歩いていくと正面に庭園美術館が来園者を迎えてくれる。
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建物自体について、庭園美術館のホームページでは次のように説明されている
「この建物は1920年代から1930年代にかけてヨーロッパの装飾美術を席巻したアール・デコ様式を 現在に伝えるものです。フランス人デザイナーが、主要部分を設計、内部装飾もフランスをはじめとする 外国から輸入されたものが多用されています。また基本設計と内装の一部は宮内省内匠寮(たくみりょう)の建築家が担当し、アール・デコ様式に日本独特の感性を付け加えています。 当館は従来の美術館とは異なり、建物自体が美術品といえます。そして、作品とその観賞空間との間に 交感が生まれるような、新しい美術鑑賞の在り方を提案しています。美術館は広大な緑溢れる庭園に囲まれ、自然と建物と美術作品があわせて楽しめる環境に恵まれ、そこに庭園美術館の名も由来しています。」
後、玄関のところには何と狛犬まで置かれている。
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当時の民間建築にも狛犬があったとは驚きであるが、魔除けをいう意味も狛犬にはあるのでどちらかというと盗賊除けとしておかれていたのではないかと思う。
美術館内は写真撮影禁止なので紹介することは不可能であるが、バルコニーが用意されており、りっぱな庭園を見ることができる(庭園側からは立ち入り禁止となっており、美術館に来館した者のみが見ることができる配慮がしてあるようだ)。下を見ると、綺麗なフラワーボックスに花をいっぱいつけた草花が植えられている。
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さて展示会の内容についてであるが企画展示は「森と芸術」と題して、森について絵画に限らず様々な角度からの取り組みについてが紹介されている。陶芸品、写真、童話そしてもちろん絵画と森についてはあらゆるジャンルで係わり合いがあることをわかりやすく展示していた。各章だてがされており、メルヘン絵本の森コーナーでは幼少期に読んだ赤ずきんやヘンデルとグレーテルの絵本が原語で展示されていた。
最後に東京の森との関連についてのコーナーがあるのだが、この中には岡本太郎の作品が展示(写真は記念館で撮ったものであるが)されていた。彼もこの地出身であり、森について深い思いがあったようである。最後にこれは説明パネルのみであったが、宮崎駿の作品について語られていた。多くの宮崎駿作品は自然との共生がテーマとしてあげられている、その中でも「もののけ姫」については特に山神様という自然の森を守る神と人間との関係をとらえており、考えさせられるテーマであると感じた。特に東日本大震災で原発被害が予想される中、森、自然とどのような形で私たちは共生していくのかを真剣に考える時期ではないかと思う。
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なお庭園については別の機会に紹介することにする。

東京都定年美術館 → http://www.teien-art-museum.ne.jp/index.html
by motokunnk | 2011-05-01 09:15 | 美術館・博物館・美術 | Trackback | Comments(0)