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師走の定番、忠臣蔵とダブルナンバープレート制

師走も上旬が終わり、後残すところ20日あまり。この時期になるとTVでは赤穂浪士の特番などが目立つようになってくる。14日は衆議院議員選挙であるが、赤穂浪士の討ち入りの日でもある。赤穂市ではもともと市主催の義士祭が毎年開催されているそうなので選挙に対応する市の職員が足りないという事態が発生していると新聞で読んだことがある。
今朝の新聞では今回の衆議院選挙に関するTV報道が前回選挙より激減しているという。自民党の公平発言が影響しているという見方もあるが、関心の低さのほうが影響が大きいのではないだろうか。投票率が低いと固定票を持つ公明党、共産党が有利と言われるが、反自民党といって頼りになる政党が見当たらない現状を考えると、「野党しっかりせい!」と言いたい。
さて話を赤穂浪士に戻し、先日40数年ぶりに泉岳寺をお詣りした。別に用事があったわけでなく、ただ何となく泉岳寺に行ってみたくなっただけである。
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40数年ぶりにお詣りした泉岳寺は当時とは違って、義士墓地の周囲が綺麗になっており、また義士墓地案内図も新調されていた。そして義士記念館、木像館も新築(といっても10年以上も前に建てられたらしい)されており40年前とは様変わりしていた。
天野屋利兵衛の墓もあり、忠臣蔵に関係のあった人の墓がすべてそろっているような雰囲気であった。また近くの魚籃坂付近の寺院には荻生徂徠の墓もあり、何かの因縁を感じてしまった。
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今朝、日韓でダブルナンバープレート制で物流コスト削減のニュースが流れていた。何でもナンバープレートを両国で取得すると両国間での通関手続きがトラック内(フェリー内といったほうが正確かも)で行うことができ通関手続きが簡素化できるとともに、物流期間も短縮できるとのことである。
そして梱包も省けるということなのでかなりのコスト削減が見込めるそうだ。ネットで調べると2012年から実施されているらしい。冷え切っている日韓関係の改善のカギとなるかどうかが今後の注目点かもしれない。

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by motokunnk | 2014-12-10 09:11 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

今朝の日経新聞の折り込み冊子

今朝の日経新聞の折り込み冊子は、「THE NIKKEI MAGAZINE STYLE すまいとくらし・夏号」で見慣れた建物が表紙を飾っていた。カミさんが読んでいるのを借りて会社への通勤電車の中で読むことにした。
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「すまいとくらし・夏号」は特集:再生建築と「街の未来」と題されて東京都内にある明治~大正時代に建築された建築の今を紹介している。その中で私が訪ねたことがある建物があった。現在は清泉女子大学本館となっている旧島津公爵邸である。私が訪問したのは2~3年前で当時クライアントがサーバの仮想化を計画しており、事例として清泉女子大を訪ねたわけである。
清泉女子大という名前は知っていたがどこにあるかは知らなかったので場所を調べて最寄駅がどこが便利なのかを調べた記憶がある。そして訪問したときに打合せをさせてもらった部屋が旧島津公爵邸にある応接室であった。
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「来訪者が来ると、この応接室で対応するのが基本となっています」と情報セクションの長の方が説明されたのを覚えている。また旧島津公邸についての小冊子や絵葉書もお土産としていただいた。今も会社の引出しに保管してある。
その他にも「文房堂」「山の上ホテル」「国際こども図書館」「歌舞伎座」「はん亭」が紹介されている。「文房堂」や「はん亭」などは誰でも行ける場所なので今度機会を見つけて是非訪ねてみようと思う。まだまま東京には古きよき建物が保存され活用されているのだなあと再認識した。
参考URL → 歌舞伎座
参考URL → 国際子ども図書館
参考URL → 旧島津公爵邸
参考URL → 「文房堂」
参考URL → 「はん亭」
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by motokunnk | 2013-07-18 19:16 | 日記 | Trackback | Comments(0)

表参道にある大山史前学研究所跡

表参道の通りを青山通り方面に歩いて東京ユニオンチャーチ脇の小路を歩いていくと、渋谷区教育委員会のプレートが目にはいる。「大山史前学研究所と大山柏邸跡」と記載されているプレートは今はマンションとなっているが、この地には「史前学研究所」が建てられていたと書かれている。
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大山柏という人物も史前学もよく知らなかったので調べてみることとした。調べてみてわかったのは大山柏という人物はあの大山巌、捨松夫婦の御曹司だった!
大山という姓は珍しい姓ではなかったので、まさか大山捨松の息子であるとは思ってもみなかった。なんでも柏は次男として大山家に生まれ、長男が戦死したことにより家督をついだ。しかし留学経験もあったりして日本軍人としてなじめなかったので、かねてから興味があり独学していた考古学の世界に没頭するようになったとウィキペディアには書かれていた。
そして自費で「大山史前学研究所」を自宅敷地内に建設して各種の資料収集編纂に力を注いだそうである。語学に長けていたので、ドイツ語で論文は書かれていたという。
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「大山史前学研究所は学術雑誌『史前学雑誌』を刊行するとともに、100箇所以上の縄文遺跡を発掘して、その成果を次々に学会に発表した。研究所には甲野勇、宮坂光次、池上啓介、竹下次作、大給尹らの所員がおり、研究所の活動を支えていた。これら多くの業績を残した大山史前学研究所は、山階鳥類研究所、徳川生物学研究所(後の徳川林政史研究所)と並んで「華族3大研究所」とも称される。」
とウィキペディアには書かれており、太平洋戦争末期の東京大空襲で研究所が焼失していなかったら歴史的な価値は相当であったと思う。惜しい資料を焼失したものである。戦後は華族制度廃止に伴い、渋谷区の土地は没収されたそうで、栃木県で余生を暮したそうである。
栃木県立図書館の特別コレクションに「大山柏文庫」がある。昭和45年に寄贈され、各国の戦史や明治維新関係の資料1000点以上が登録されているそうだ。もし機会があり、栃木県立図書館に行ったならば忘れずに特別コレクションを見てみようと思う。
大山捨松といえば、新島八重と並ぶ会津藩士の娘で明治維新後に大山巌と結婚して女性教育に力を注いだことで有名であるが、息子も歴史に名を残す功績をあげている。歴史秘話で取り上げたときに子孫の話もあればそのときに気がついていたと思うが、このように大山柏のことを知り、また大山巌・捨松夫婦の偉大さを再認識してしまった。
参考URL → 大山柏/ウィキペディア
参考URL → 失われた史前学―公爵大山柏と日本考古学 [単行本]
参考URL → 栃木県立図書館・特別コレクション
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by motokunnk | 2013-05-23 20:17 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

仕事が終了し、田山花袋記念文学館を訪ねる!

今日は、仕事で館林に行くことになった。幸い午前中で終わりそうなので、午後は田山花袋記念文学館に行く計画をしていた。「独歩・花袋・国男 -丘の上の青春ー」という企画展を白根記念渋谷区郷土博物館・文学館で見てから花袋について知りたいと思っていたからである。予定通り、午前中に仕事は終了、昼食をとっていざ田山花袋記念文学館へと足を向けたがさすがに上州というだけあり歩くのもままならないほど風が強く感じられた(ちょっとオーバーではあるが)。
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また、館林にはたぬきの置物や銅像が目立っておいてある。分福茶釜で有名な茂林寺も館林市にあるようなので、市としても観光PRに役立てているのかもしれない。駅前にもたぬきの銅像が建てられている!
またつつじに代表される花の産地でもあるようで、今つつじまつりが開催されていた。駅前でもらった案内図によれば県立つつじが岡公園に面して田山花袋記念文学館はあるようだ。歩いていける距離なので食後の運動がてら歩いていくことにする。
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つつじまつりの真っ最中というわけではないだろうが、街には花が綺麗に咲いている。「花は見るだけ、写真は撮るだけ」という注意書きもありシャレた街並みとなっている。歩き疲れたころ、田山花袋記念文学館は現れる。隣には向井千秋記念こども科学館も併設されていた。向井千秋さんも館林出身であったとは知らなかった。
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こども科学館は次の機会にするとして早速、田山花袋記念文学館に入館する。文学館は常設展示室と企画展示室に分かれており、常設展では主に花袋の一生についての展示がなされていた。企画展示の方は花袋家からの所蔵品を中心に展示されており、それほど広くないスペースに多数の作品が見事に展示されているのには驚いた。歴史の中で花袋も一時期代々木に住んでいたと書かれており、白根記念館での企画展の私のわだかまりを解消してくれた。
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また路を隔てた第二資料館には花袋の銅像と一緒に旧居がありそちらも見ることができ、午後は花袋一色となってしまった。駅への帰り道で気づいたのだが、歩道にあるマンホールにもたぬきが書かれていた。
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館林市はやはりたぬきがメインの街のようである。館林のゆるきゃらもあるとすればやはりたぬきがベースのものであろうと思い、ネットで調べると何とトリオであった。
参考URL → 田山花袋記念文学館
参考URL → 第二資料館
参考URL → 館林のゆるキャラトリオ
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by motokunnk | 2013-05-02 19:18 | 美術館・博物館・美術 | Trackback | Comments(0)

散歩を楽しく/渋谷三業地をゆく!

今朝、首都圏は雨模様である。午前中は雨という予報なので散歩はお預け状態である。さてもう1ヶ月近く前になるが、shibuya1000というイベントのことを紹介したことがある。その中に「三業通りプロジェクト2」というものがある。
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書き出しには「「三業通り」をご存じですか? 渋谷の地図を眺めていると優美な曲線を描く1本の通りに気づき ます。道玄坂上から旧山手通りへと抜ける「三業通り」です。かつて芸妓置屋、待合、料亭の営 業が許可された三業地(花街)であった神泉・円山界隈をくねくねと貫く風趣漂う通り。」
とある。円山町界隈のことが紹介されているパネルであり、非常に興味があったので一回は行ってみようと思っていた(近くなので機会がないと行かないエリアである)。
昨日東急ハンズまで買物に出かけたので、いい機会なのでちょっと足をのばしてみることにした。shibuya1000では1本の路に注目して写真などが展示されていたが、実際にネットで円山町で調べると、東電OL事件が数多くヒットする。冤罪事件となった殺人事件が起きた事件現場としても有名な場所でもある。
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そんな負のイメージはさておき、やはり昔から営業しているお店も円山町にはあるようだ。つくりは旧そうな店もチラホラみることができる。また通りの脇にはこれも有名となっている地蔵が祀られている。自宅の土地を地蔵用に供出しているのだそうだ。地域の遺跡を守るためとはいえ頭の下がる想いである。
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また弘法湯の石碑もあり、この地で温泉がでてそれが円山の繁栄を築いたことがうかがい知れる。
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神泉駅は変わってしまったが、相変わらず踏切は残っており、京王井の頭線の電車が行き来している。井の頭線というと隣の駅が見える場所もあり、電車というよりは路面電車の延長という感じがするのだが、これも渋谷で観られる風情なのかもしれない。
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参考URL → 渋谷円山町会ホームページ
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by motokunnk | 2013-04-21 08:42 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

秋葉山大権現常夜燈と谷口断山碑

今日は、会社の新入社員歓迎会であった。久しぶりの宴会であったが、2時間コースの飲み放題とありあっという間にお開きとなった。
さて先日のこと、いつものように散歩をしながら普段とは違う経路(いつもは祥雲寺の前を通過する)で広尾商店街方面へ向かうと路の左側にご覧のような碑と祠と思しきものが建立されていた。
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碑は谷口断心の碑とあり、広尾の名士であった谷口氏を祭って建てられたようである。そして祠には「奉納秋葉山大権現常夜燈」というりっぱな碑が建てられている。常夜燈とは読んで字のごとく1晩中点けておく燈のことであり、どちらが常夜燈なのかがわからなかった。
帰宅してネットで調べてみると、どうも霊泉院境内にある秋葉神社の常夜燈のようである。秋葉神社とは「遠州{静岡県}秋葉山山頂の「火祭り」鎮火の神を勧請したもので、関東大震災(大正12年9月1日)や東京大空襲(昭和20年5月)でも広尾の町を守ったといわれます。「五の日の縁日」は今もにぎわい、広尾の風物詩になっています。」と観光ガイドでは紹介されている。
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今度は5のつく日にこの近辺を散歩してみようかと思う。きっと何か新しい発見がありそうである。この近辺は広尾の散策路となっており、歩道にはタイルが埋め込まれており、散策するにはもってこいのエリアといえそうだ。
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まだ霊泉院には非公開ながら渋谷区の有形文化財もあるようだ。
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by motokunnk | 2013-04-12 22:06 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

ヤン・ヨーステンと平和の鐘はオランダつながり?

1ヶ月ほど前のテレビのクイズ番組で、ヤン・ヨーステンという人物のことを知った。なんでも八重洲の名称はヤン・ヨーステンの名前に由来しているとのことである。
確かに八重洲通りの中央分離帯にはヤン・ヨーステンのレプリカが設置されており、八重洲との関係があることがわかる。
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そこでヤン・ヨーステンについて調べてみると
「ヤン・ヨーステンはオランダの航海士、朱印船貿易家。日本名は耶楊子。ヤン・ヨーステンは名で、姓はファン・ローデンスタイン。1598年にオランダ東インド会社がロッテルダムからアジアの極東を目指す航海のために司令官のヤックス・マフが乗組員を集めている時に、ヤン・ヨーステンは応募しリーフデ号に乗組みました。」
1598年6月に5隻の船団はロッテルダム港を出航しました。新大陸アメリカで積荷を銀に換えようとしましたが失敗し、マゼラン海峡を越えて日本を目指し、日本で積荷を銀に換えて、モルッカへ行ってスパイスを買う予定でしたが、マゼラン海峡を通過するとき嵐に遭遇して、船隊はバラバラになりました。トラウ号は東インド諸島でポルトガルに拿捕され、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返しました。残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も遭難、沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となりました。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病の蔓延、インディオの襲撃に晒されたために次々と乗組員を失っていきました。こうして出航時に110人だった船の乗組員は、僅かに24人にまで減っていました。
ヤン・ヨーステンが乗組んでいたオランダ船リーフデ号は嵐に遭遇して、1600年4月19日に大分県の臼杵に漂着しました。自力では上陸できなかった乗組員は臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏みました。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はヤン・ヨーステンらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰ぎました。この間にポルトガル・イエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求しました。結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、ヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムス、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させました。
その後、徳川家康に謁見して信任され、外交や貿易についての顧問となりました。江戸の「丸の内」に屋敷を貰い、日本人と結婚し、耶楊子と名乗りました。オランダ船リーフデ号漂着の成果は幕府がオランダに発行した朱印状、つまり通商許可証でした。1609年にオランダ船が平戸に入港し、それ以降、日蘭貿易が本格的に始まりました。
彼の江戸屋敷は現在の和田倉門~日比谷間の内濠の沿岸に与えられ屋敷を構えました。この地が彼の 名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続きました。現在は、中央区の八重洲 としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っています。」
ということだそうだ。ヤン・ヨーステン、江戸時代初期にひょんなことで日本に漂流したオランダ人が八重洲の地名になって後世にまでその名を残すとは彼本人がビックリしているのではないだろうか。
ヨーステンのレプリカのそばには、中央区の平和の鐘も設置されている。
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「平和の鐘は資料によると1988年3月15日に中央区は世界の恒久平和と人類の永遠の繁栄を祈念し「平和都市宣言」をいたしました。三角形のアーチは、この宣言を記念するモニュメントとして、設置したものです。この平和の鐘は オランダ製で26個のベルによって四季おりおりのメロディを奏でます。」とある。
ヨーステンはオランダ人、この鐘もオランダ製、どちらもオランダに縁があるようだ。
ヨーステンの記念碑はこの他にもリーフデ号などが八重洲地区にあるようなので、次回はそれらをまとめて紹介できたらと思う。
参考URL → ここに歴史あり
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by motokunnk | 2013-03-09 08:37 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

京橋界隈の記念碑などなど

今朝は我家の近辺でも雪が降ったようである。出勤する路には植え込みがあり、その土の部分がうっすら雪化粧していた。ただし通勤時間帯にはすでの雨もやみ、傘をささずに出勤することができた。朝のニュースではグアムで無差別殺人事件が発生していることが報じられている。秋葉原の無差別殺人事件を思い出させるような事件であり、あってはいけないことだと思う。世界で一番治安のいい国はどこなのか真剣に考えてしまう。
さて京橋に本社が移転して半年が経過した。浜松町にいたときは昼休みなどを利用してちょくちょく近所の散策をしていたが、やはり大都会のど真ん中に移転すると、本社からちょっと散策という雰囲気にはならなくなってしまう。
これも歳なのかもしれないが、問題は意志なのかもしれないと思い、時間を見つけては散策するようにしている最近である。そんな散策途中で気付いた風景を撮った写真について紹介していくことにする。
まずは京橋の親柱についてである。以前このブログで日比谷公園にある親柱と京橋にある柱について説明したが、京橋にはこの写真で紹介する3本目の柱があることに気付いた。ネットでの説明には次のように書かれている。
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「京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。橋は、昭和三十四年(一九五九)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。」
時代ごとに橋が建て替えられてその都度、親柱が製作されていたことがわかるし、歴史を感じさせる。京橋の親柱から、首都高速をくぐったあたりに次に紹介する記念碑が建てられている。
江戸歌舞伎発祥の地を示す記念碑である。英文と和文で説明されている。
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碑文によると
「寛永元年二月十五日 元祖猿若中村勘三郎 中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し斯石を鎮め 国劇歌舞伎発祥の地として永く記念す。昭和三十一年七月 江戸歌舞伎旧史保存会」
とあり、昭和31年からこの地にあるようである。今までは全然気づかなかった記念碑で、見ればかなりりっぱなものであるが、今までは気づかずにその前を通り過ぎていたわけで人間、きょろきょろしていると何かの福(これを福というのかはわからないが)があるものである。
歌舞伎界は大御所が相次いで中村勘三郎、市川団十郎と急逝してしまった。新歌舞伎座が4月に杮落となるが、演目がどうなるのか、野次馬ではあるがちょっと気にはなる。
最後に紹介するのは、第一生命相互館である。私が京橋に通勤していたときに、先輩から言われた言葉がある。「京橋交差点には3つの第一生命がオーナーのビルがある。」なんでも都内の交差点で1企業が4角すべてにビルを所有しているところはなく、3か所所有しているところも京橋交差点ただ1つということだそうだ。
その言葉を覚えていたので、京橋交差点が再開発されて昔の面影がなくなっているのには一抹のさびしさがある。ただ、第一生命相互館の後、新築された相互館110タワーには第一生命相互館の模型とパネルが展示されている。
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私が見ていた相互館は2代目であるが、初代の相互館が模型ではあるが復元されている。東京駅と同じ辰野金吾の設計であることがわかり、明治時代は辰野金吾がほぼ代表的な建築物の設計に携わっていたのだなあと変なところで感心してしまった。
この他にも本社界隈には記念碑がたくさんあるようで、暇を見つけて散歩がてらに歩き回ってみようと思う。
参考URL → お江戸京橋界隈あれこれ噺
参考URL → 江戸歌舞伎発祥の地
参考URL → 第一相互館の歴史
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by motokunnk | 2013-02-13 19:47 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

腹部MRI検査と献血発祥の地

今日は病院で腹部MRI検査の日である。朝から病院へ行き、検査を行い結果を聞いてさきほど帰宅した。もともと人間ドックで腎臓やら肝臓に嚢胞があることはわかっていたが、近所のクリニックに紹介されて腹部MRI検査をしたのがちょうど1年前であった。ブログでも書いたが1年前は大雪であった。あれから1年経過しての検査である。
半年に1度検査を受けるのだが、毎回嚢胞の大きさは変わっていない。10数年前から大きさは変わっていないのでもともとあった嚢胞なのかもしれない。また半年後に検査しましょうといわれ、予約を入れられてしまった。今日は年休をとっているので問題はないが、仕事が閑散期となる二月、八月であるので、繁忙ではないだろうと思っている。
さて、最近気づいたことがある。通っている病院は日赤医療センターであるが、前の通りに面した植え込みの中に球体のモニュメントがある。そばに行ってみると、球体のモニュメントのほかに、御影石製の背の低い石碑が併せて設置されている。
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文字も書かれており、モニュメントには「誕生日に献血を」、石碑には「献血発祥地碑」と書かれて、「日赤中央血液センター」と「東京秋葉原ライオンズクラブ」の文字が彫られているのが読み取れる。
もともと献血は売血に頼っていたそうだが、1964年にライシャワー米大使が暴漢に刺される事件の際に輸血によって肝炎を発症したことから問題視され, 売血を禁止して すべて日赤による献血血液に切り換えられることになったそうだ。
日赤による血液事業は1952年に「日本赤十字社東京血液銀行」として開始され、やがて「日赤中央血液センター」として この地(渋谷区広尾)に移転した。そのこともあり、この地に記念碑が建てられたのだと感じた。献血ひとつとっても奥が深いと思う1日であった。
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通りのむかいの学校では梅の花が咲き始めていた。天気予報では今日春一番が吹くと言っていたが、そろそろ春の気配が感じられそうである。
参考URL →  血液事業を知ろう
参考URL → 献血発祥之地
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by motokunnk | 2013-02-07 13:41 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

散歩を楽しく/常磐松の碑について

総選挙、知事選挙も終わりちまたにまたいつもの生活が戻ってきたような感覚である。以前から気になっていたのだが、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の道路を挟んだ反対に一つの石碑が建てられている。
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その石碑の脇には渋谷区教育委員会が設置した案内板が建てられている。その案内板によると今日のブログのテーマである「常磐松」がこの地にあったことを記している。残念なことに先の第二次大戦の空襲で焼失してしまったそうであるが、もし焼失を免れたいたら樹齢400年以上になる松が存在していることになる。このエリアのランドマークとして有名になったいたのではないかと思われるので残念なこと、戦争の悲惨さは人間だけでなく自然も破壊してしまうということを実感した。
この松がなぜ常磐の松と言われるかについては諸説があるそうだ。一説には、源義朝の側室で牛若丸の母である常磐御前が植えたと伝えられている。この説が常磐松という地名にもなったといわれている。説明板によれば、世田谷城主吉良頼康の妾、常盤のことであるともいわれている。こちらの場合は樹齢400年と言われる松の年齢ともおおよそ一致するのでこちらの説が正しいのかもしれない。
この吉良頼康の妾、常盤についてはいろいろと地元では有名人のようで数々の逸話が残っている。これはまたの機会にでも紹介しようかと思う。
話はずれてしまうが、もともとこの地区は常磐松町といわれていた。それが昭和39年に実施された町名変更で東何丁目というようになったわけである。常磐松という名はわずかに小学校に残っているが、相変わらず、地元の町会にはその名称が残っている。
その名称の常磐松がこの常磐の松からの命名であることは間違いないのでそういう意味からは、由緒ある松である。すぐ隣には常陸宮殿下が住む常磐松御所があるが、その御所も名称も常磐松となっている。また今の天皇陛下もこの地に住まわれており、皇太子もこの地で生活した記憶がある。古い話であるが、我が家の隣にも皇太子と同世代の子どもがいて、高貴な顔付(だったかは忘れたが、その両親がそう言っていた)のためか誘拐(そのころ吉展ちゃん誘拐殺人事件が世の中を震撼させていたので)されることを心配したいたことが思い出される。
またまた話がずれてしまったが、常磐の松とはいろいろな人にとって、数々の思い出がつまっている松(常磐松という名称のほうが正しいのかもしれないが)と言える。
説明板には次のように書かれている。
「もとこのあたりにあった皇室の御料乳牛場の構内に常磐松と呼ばれた樹齢約四百年、枝ぶりのみごとな松がありました。その松は源義朝の妾、常盤が植えたという伝説があり、また一説には世田谷城主吉良頼康の妾、常盤のことであるといいますが、はっきりしたことはわかりません。
この近くにはかつて渋谷城があり、渋谷一族の金王丸は義朝、頼康の二代に仕えた臣ですから、常盤御前が植えたという伝説が生まれたのでしょう。
この碑は御料地になる以前に、その土地が島津家の持地だったこともあり、そのときに島津藩士によってたてられました。当時常盤松の代価壱千両といわれたほどの名木でこのあたりの地名であった常盤松町の起源となりました。」
なお常盤と常磐についてであるが、そもそもは常盤という漢字が利用されていたそうだが、皿は割れるので縁起が悪いという理由で町名は石の文字のほうを利用したそうである。
参考URL → 常磐松町
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by motokunnk | 2012-12-20 19:07 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)