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散歩を楽しく/さんぽみち総合研究所の別ルート

つい1ヶ月ほど前にさんぽみち総合研究所についてブログで書いた記憶がある。その時とりあげたのは渋谷コースだったと思うが、渋谷にはまた別のコースもある。
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それが世田谷コースである。東急本店前には見慣れた道標があり、そこには周辺にある歴史的な史跡や文化施設がポイントされている。そこには過去にこのブログでもとりあげた道玄坂道供養費や東京新詩社跡などがポイントされている他に今日紹介する山路愛山終えんの地、竹久夢二居住地跡などもポイントされている。
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竹久夢二居住跡は、本店から東急ハンズに向う路に面しており、こちらもブログで紹介したので、写真だけの紹介とし、山路愛山終えんの地を目指すことにした。
どのへんに山路愛山は住んでいたのかというと、現在のパルコパート1から井の頭通りに向う坂道の中途あたりに住んでいたようである。この道標もその付近に建てられていた。
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山路愛山というと明治・大正初期に活躍した評論家、歴史家であり、本名は彌吉という。愛山はその号であるようだ。著書も多く、評論家としてはかなり有名な人のようである。残念ながら私はその著書を読んだことがないのでなんとも批評しかねるのが本音である。ブログで書いたので、こんどぜひ1冊著書を読んでみようかと思っている。

ウィキペディア → 山路愛山
さんぽみち総合研究所 → 世田谷コース
by motokunnk | 2012-06-29 19:29 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

散歩を楽しく/表参道の徳冨蘆花住居跡

先週、「さんぽみち総合研究所」なる団体があり、都内に23箇所の歴史と文化の散歩道を設定していると書いた。その中の渋谷からのルートを紹介したが、表参道交差点にも道標が建っている。散歩を楽しく/表参道の徳冨蘆花住居跡_d0183174_19275260.jpg
その道標を見ると、徳富蘆花の住居跡が近くにあるというので、その場所を見つけることにした。表参道から原宿方面へ歩き、一つ目の信号を右に曲がる。伊藤病院の角といったほうがいいかもしれない。昔は何もない路地であったが、ここ数年はブティックなどが建てられて、休日は結構な人だかりのようである。路地を直進して突き当たりを左へすすむ。
また右方面に道があるが、そのまま歩くとすぐのところに徳富蘆花住居跡の標が建てられている。目立つ場所なので見つけやすいと思う。その標には、「明治の文豪徳冨蘆花は、明治33年に逗子からここに移り、同38年に再び逗子に戻るまでの間に「思出の記」を完成させました。また、「黒潮」「慈悲心鳥」「霜枯日記」などの作品も発表しました。」というようなことが書かれている。
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明治時代、表参道はまだいまほど栄えてはいなく、武蔵野という名で呼ばれていたようである。国木田独歩の住居跡も歩いて数分のところにあるので、自然を感じながら執筆活動に勤しんだのであろうと勝手に想像してしまった。わずか数年間の短い間ではあったが、この地で執筆活動をしていたようである。徳富蘆花の記念館は渋川市にあるようで、りっぱなホームページが用意されている。定年後に暇を見つけて出かけてみようかと思う。

渋川市 → 徳冨蘆花記念文学館
ウィキペディア → 徳冨蘆花
by motokunnk | 2012-05-30 19:31 | 街の風景 | Trackback(30) | Comments(0)

文豪の旧居

我家の近所に昭和の文豪の住まいがある。実際、私が小学生の頃に白髪の老人をよく見かけたものである。品のよさそうな老人だなあとは思っていたが、まさかその老人が志賀直哉だとは思いもよらなかった。
ということで、志賀直哉が晩年を過ごした住居が我家のすぐそばにある。志賀直哉といえば、白樺派を代表する小説家のひとりで、代表作は『暗夜行路』、『和解』、『小僧の神様』、『城の崎にて』などがある。どれも秀作であり一度は読んでみたい本である(残念ながらまだ読んだことはない)。これを気に読んでみようかと思っている。
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現在も志賀家の方が自宅として住まわれている。ただ、この入口は閉められており、通常は別の通りに面した表玄関から出入りされている。
by motokunnk | 2010-09-29 19:14 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

渋谷道玄坂の東京新詩社跡

道玄坂を登ること1分程度、マークシティ入り口への曲がり角を左に曲がるとこの木柱が歩道の片隅に立てられている。
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木柱は、平日はサラリーマン、休日ともなると若者たちで賑わうマークシティ界隈に数十年前に与謝野鉄幹、晶子夫婦が設立した東京新詩社があったことを知らせている。
では東京新詩社とはどのようなものなのか、調べてみた。
ネットによれば(相変わらず、この一言からはじまってしまうが)、
与謝野鉄幹主宰の詩歌結社。早くから和歌革新運動に従った鉄幹は,1899年新詩社を結成し,翌年機関誌「明星」を創刊した。短歌を中心としてはなやかな浪漫主義文学運動を展開し,与謝野晶子、高村光太郎、石川啄木、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、佐藤春夫らを世に送った。
とある。いずれも1900年代初頭に活躍した文豪たちである。この場所で住いを変えながら「明星」を発行していたのである。その後千駄ヶ谷に移り住んでいる。
木柱には渋谷区教育委員会の言葉が書かれている。
「与謝野鉄幹は明治34年(1901年)麹町から渋谷に移り住み、晶子と結婚しました。東京新詩社の機関誌『明星』を12号から発行し、晶子も歌集『みだれ髪』を刊行しました。詩歌革新を目指して盛んに文学活動を行いましたが、明治37年に千駄ヶ谷に移るまでに、この近くに2度住まいを変えています。千駄ヶ谷に移り住んでから、東京新詩社は最盛期を迎え、晶子も歌集『恋衣』や『夢の華』などを刊行しましたが、新詩社の機関誌『明星』が100号で廃刊される事態となり、明治42年に神田駿河台に移りました。」
by motokunnk | 2010-09-26 08:16 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

与謝野晶子歌碑の紹介

渋谷は道玄坂、ちょうどマークシティを渋谷駅方面から歩いて、道玄坂に出るあたりにこの記念碑はある。まわりに3つの記念碑があり、さながら記念碑のオンパレード状態である。
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「母遠うて瞳したしき西の山 相模か知らず雨雲かかる」と書かれているこの写真の記念碑が与謝野晶子歌碑である。そしてこの記念碑だけ、教育委員会の説明板がついており、なんだか特別扱いのようでもある。
与謝野晶子と渋谷といえば、夫の鉄幹とともに東京新詩社を立ち上げ(これも住居跡の碑が同じ道玄坂にあり、近々紹介の予定)ており、ここから機関誌「明星」を発刊している。晶子も歌集「みだれ髪」を刊行した。夫婦はその後千駄ヶ谷に移り住んでいる。渋谷区にはゆかりのある詩人といえよう。
by motokunnk | 2010-09-08 19:28 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

竹久夢二居住地跡の紹介

東急本店から東急ハンズへ行く道の右側に竹久夢二居住跡の石碑がある。文献にによると大正10年夏にお葉(夢二が名付ける・本名は佐々木カ子ヨ)と渋谷に所帯を持つとある。先日紹介した国木田独歩の場所からは歩いて2~3分の場所である。
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多くの叙情画集や「宵待草」の作詞で高まった人気も一段落した頃のことだ。当時ここに住んでいた歌人の西出朝風(ちょうふう)が、自分の隣の家を紹介したとのこと、ちなみにこの朝風とは口語体短歌の創始者という人物で、夢二のパトロンの義理の弟でもあった。
この家の様子を夢二は自伝的画文集「出帆」の中で次の様に描いている。
『…瓦斯燈のように頭でっかちでのっぽの家だったが、二階の窓下の木立の中から川瀬の音が聞こえてきた。すぐ隣が風呂屋で夜遅くまで流しの音がしたりして「まるで温泉へいったようだ」と友達が言った…』
この風呂屋というのが月の湯であろう。間取りは二階四畳半、一階六畳四畳半三畳というささやかなものであったとのことである。
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渋谷での暮らしも長くは続かず、大正13年暮れ、下松沢村松原(現在の世田谷区松原)に移り住んだとある。約3年の短い暮らし中、夢二はここで何を考えたのであろうか、私のような凡人にはとても想像できない。
by motokunnk | 2010-08-11 10:18 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

国木田独歩住居跡の紹介

渋谷には、過去多くの文豪が時代をまたいで住んでいた。渋谷区のホームページ「文化人の碑」にどこに何があるかが書かれている。
さて今回はそのトップで紹介されている「国木田独歩住居跡」について。
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渋谷区役所の前を通過し、税務事務所を越え、226事件慰霊碑を過ぎると、歩道脇にひとつの木製の碑を見つけることができる。ちょうどAMWAY本社ビルの目の前である。この木製の碑が「国木田独歩住居跡」である。
明治の文豪が作家としてデビューする直前、二十代半ばの一時期を過ごした場所がここである。そのころの渋谷は今と違い、まだ草深い東京郊外の地であった。今でいう武蔵野の面影が色濃くでている風景が広がっていたそうである。
「武蔵野」の冒頭には、『自分は二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷村の小さな茅屋に住んでいた。』と書かれているので、この付近はまだ草深い東京といっても郊外であったことが証明できる文章でもある。事実、我家は大正時代に今の場所に移り住んだのであるが、当時は東京市豊多摩郡渋谷村という地番であったそうである(祖父母から聞いたことがあり、そのまま記述した。今ネットで調べると、東京府豊多摩郡渋谷町が正解のようである)。
また、「十年前の田園生活」では、独歩が住んだころ坂の下は一面田んぼで、今の井の頭通りと思われる道ももその中を走る小路に過ぎなかったようだ。坂の入口には扉も何もない形だけの門があり、くぐると今と同じように爪先上がりの勾配が続いていたという。 今の渋谷とは想像もできないような田園地帯であったようである。
木柱の横面には国木田独歩の簡単な略歴が書かれている。
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確かに、私が生まれた頃、そして幼児期は近所をよく駆け回って遊んだものである。今と違い、交通量も少なく(というよりは皆無)、交通事故など気にしたことはなかった。時代の変化はめまぐるしいものである。

国木田独歩について、より詳しく知りたいという人は、http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person38.html
をご覧あれ。ウィキペディアへのリンクもついている!
by motokunnk | 2010-08-05 20:11 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)