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タグ:青山墓地 ( 9 ) タグの人気記事

散歩を楽しく/街で見かける不思議な地図の案内板

散歩をしていると、地図が埋め込まれた案内板を見かけることがある。道標のような石で造られたもので、サイドには歴史と文化の散歩道と彫られている。
ネットで調べてみると、「さんぽみち総合研究所」なる団体があり、その団体が整備をしていることがわかった。東京都を中心に23の散歩コースを設定しており、先述の道標の他に案内板などを設置してある。
その中で我家の近辺にある散歩道を歩いてみることにした(とはいっても散歩道で設定してあるコースの一部分であるが)。そもそもこの散歩道に興味を持ったのが青山墓地の真ん中にある案内板の存在である。そこには全行程の地図が描かれており、特に現在位置周辺の見所がプロットされている。
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墓地に設置されているので(それも青山墓地なので)、有名人のお墓の所在がプロットされているのが中心であるが、その他にも根津美術館などがプロットされている。
その案内板から表参道方面にコース沿いに歩いていくと道標を発見することができる。
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そしてこの道標によるとちょっと外れたところに「青山の庚申塔」があるという。早速そちらを見学することにした。墓地に沿って坂(上の写真の路地)を下ると坂下付近に庚申塔は存在する。
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教育委員会の説明板も設置されており、「右 あをやま 内とうしん宿 ほりのうち 左 二十きおくみ 百人おくみ ぜんこうじ」と建立当初は道標の役割を果たしていてと書かれている。庚申塔は各所で見ることができるが、それぞれそのエリアでの道標をしていたのであったようだ。

「さんぽみち総合研究所」 → ホームページ
by motokunnk | 2012-05-27 08:47 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

散歩を楽しく/常陸丸事件

青山墓地の中ほどに記念碑がある。前から気にはなっていたのだが、記念碑横に説明板が用意されているのだが、じっくりと読む機会がなかった。先日、その記念碑をじっくりと読み、横にある説明板を読むと日露戦争の際にロシア艦船に銃撃され沈没してしまった輸送船・常陸丸の船員たちの追悼の碑であると書かれていた。
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常陸丸をネットで調べてみると次のような記述を目にすることができた。
「日露戦争中の1904年(明治37年)6月15日、玄界灘を西航中の、後備近衛歩兵第一連隊本部および第二大隊(第八中隊欠)および第十師団の糧食縦列を乗せた陸軍徴傭運送船『常陸丸』がウラジオストク巡洋艦隊所属の3隻の装甲巡洋艦(ロシアRossia、リューリク、グロモボーイ)に追撃され、降伏を拒否して撃沈された事件である」(出典:ウィキペディア)
とある。また靖国神社には慰霊碑があるという。ウィキペディアには写真がでていたので、靖国神社に行った際には実物を見てこようと思う。日露戦争当時は、『常陸丸』の乗組員の壮絶な戦死が美化され、ロシア批判にいながったようだが、果たして現在ではどう受け止められるかは微妙である。常陸丸という船名は数奇な運命をたどるようで、名を継承した2代目の船も、第一次世界大戦において戦没している。
このことはネットでも詳しく説明されているのでそちらを参照してほしい。

二度も撃沈された悲運の常陸丸 → 目次
ウィキペディア → 常陸丸事件
by motokunnk | 2012-05-15 20:19 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

散歩を楽しく/白金番外編・北里柴三郎

今日は朝から首都圏は雨、雨の中の散歩はなしとして、撮りためた写真の中から数枚ピックアップして紹介することにする。先週の土曜日に白金地区を散策したのであるが、そのときに通勤で通る道の傍らにある大学のキャンパスに足を踏み入れてみた。
その大学というのが北里大学である。記念病院も併設しておりまた当日は臨床薬理試験研究会も予定されていた。大学の祖である北里柴三郎であるが、中学の国語の授業で学んだ記憶がある。確か細菌を発見し、日本の医療に多大な貢献をしたというようなことを教えられたような気がした。ここは北里柴三郎についてまず調べてみることにしよう。
例によって、ウィキペディアで調べてみる。
「熊本生まれ。細菌学者。庄屋の長男に生まれ、熊本医学校、東京大学医科大学を卒業後、内務省衛生局に勤務。ドイツに留学し、明治19年(1886)よりコッホに師事、22年(1889)に世界初の破傷風菌培養に成功した。24年(1891)医学博士となり、25年(1892)帰国後は伝染病研究所長を務めた。研究所の文部省移管に反対して辞職、大正4年(1915)北里研究所を設立し、6年(1917)には慶応義塾大学医学科創設に尽力した。」
とあり、細菌学では第一人者であったようである。それで、キャンパスにはコッホを祀った神社が建立されているのがわかる。
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建立の詳細が記述されている銅(だと思うが)のプレートが一緒に建てられている。北里といえば、初代の東京大学医科学研究所所(旧国立伝染病研究所)所長でもあり、白金にはゆかりのある人物のようである(研究所が東大の下部組織となることに反発して辞任して北里研究所を設立したとあるので、近くに土地を探して建設したのかもしれない、歴史は調べると因縁があって面白い!)。話は横道にそれてしまうが、東京大学医科学研究所内にある近代医科学記念館は当時の「伝染病研究所」の外観を模したものだそうである。知っていれば外観写真を撮っておくべきであった。写真は入口とそばに咲いていた紫陽花の花である。
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さて、北里柴三郎についてはこの程度にし、キャンパスをざっと見渡すと病院棟が入口から右手、研究棟が同左手にわかれていて整然と配置されている(キャンパス内には案内図が設置されていて初めて訪問した人にもやさしく応対してくれる)。
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病院奥には東洋医科学研究所と表示されたりっぱな研究棟が建てられている。研究棟エリアには中庭といえるスペースが設けられており、昼時などは学生が団欒するスペースとして活用されているのだと思った。
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リハビリ系学科、看護系学科も整備されているようで、総合とまではいかないがりっぱな医学系大学&病院といえるのだへないかと感じた。北里柴三郎の教えが引き継がれている学校だと思った。
最後に北里柴三郎の墓であるが、青山墓地にある(墓石の位置:1イ 19 2)。そばに「畝傍(うねび)の森」と題された庭園(ポケットパーク)があるので、近所まで行った際は覗いてみるのもいいかもしれない。「畝傍(うねび)の森」は一見の価値はあると思うのだが(下のブログ記事を読んでみて欲しい)、、、。
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北里柴三郎については → 近代日本人の肖像
北里研究所については → 公式ホームページ

関連している私のブログ → 散歩を楽しく/白金台編
関連している私のブログ → 巡洋艦「畝傍」と水雷砲艦「千島」
近代医科学記念館の全景 → 近代医科学記念館(この記事の最後に写真あり)
by motokunnk | 2011-06-11 09:21 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

巡洋艦「畝傍」と水雷砲艦「千島」

この2隻について知っている人はよほどのマニアか私のようにある場所に行って興味がわいて調べた人のどちらかであろう。
そのある場所とは青山墓地、中央通りから上り階段がある場所を登りきったところに「畝傍(うねび)の森」と題された庭園(ポケットパーク)がある(震災の影響か、その階段はチェーンが貼られて通行止めとなっていたが。)
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さてその庭園入口にはプレートが貼られており(写真左)、霊園にゆかりのある記念碑などが建てられていると説明されている。確かに、正面には記念碑と砲身のようなものが飾られている。その前にはプレートがあり(写真右)、巡洋艦「畝傍」と水雷砲艦「千島」についてなぜここに飾られているかが説明されている。
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ただプレートの説明では、何故巡洋艦「畝傍」と水雷砲艦「千島」がここに祀られているかがわからない。帰宅し調べてみると畝傍と千島の間には少なからず関係があったことが判明した。それは長くなるが調べた結果を転記するとこのようになる。
「明治海軍は拡張計画に基づき巡洋艦三隻の建造を計画、英国に「浪速」「高千穂」が、仏国に「畝傍」が発注された。明治19年 8月竣工、同年10月18日に日本への回航されることとなり、飯牟礼俊住海軍大尉以下の八名が回航員として乗り組み、仏側は76名の操艦員が乗り組んだ。12月3日、最後の寄港地シンガポールを横浜に向けて出港したが、入港予定の13日になっても到着せず、その後の捜索でも遂に同艦を発見することは出来なかった。原因として、トップヘビーによる転覆が考えられるが、その真相は今もって謎に包まれている。日本政府は同艦の建造費の残金(半額)を払う必要が無くなったが、仏側は保険金で水雷砲艦「千島」を建造し、残額の回収を試みた。しかし「千島」も納品航海時に遭難した。」
そして「千島」について調べてみると
「水雷砲艦「千島」は、明治19年に仏国が日本の発注を受けて建造したが納品前に遭難亡失した巡洋艦「畝傍」の建造費残額の回収を目的として、保険金によって建造された。明治25年4月1日、仏国ロワール造船所にて竣工、同年11月24日に長崎入港、28日に神戸へ向けて出港した。30日、波静かなる暗夜、松山堀江沖の釣島水道において英国商船と衝突し、艦長の鏑木海軍大尉以下乗員90名とともに海没した。」
とある。
畝傍の保険金で建造された千島も数奇な運命をたどって沈没してしまったわけである。それで、ここ霊園を建てて英霊の御霊を葬っているということであると勝手に解釈してしまった。
正面の記念碑以外にも左右にりっぱな石碑が建てられており、一見の価値はあると思う。青山墓地に行かれたさいには立ち寄ってみてはどうだろうか。
なお水雷砲艦「千島」の慰霊碑は松山市の浄福寺にもあるそうである。
詳細な説明は以下を参照
巡洋艦「畝傍」 巡洋艦 畝傍
水雷砲艦「千島」 → 千島 (通報艦)
by motokunnk | 2011-04-18 19:41 | 記念碑 | Trackback(29) | Comments(0)

乃木という名称がつく地名

港区青山界隈には乃木という名称がつく地名、施設が多数存在する。勿論由来は明治の偉人と言っていい乃木希典にちなんだものである。今日はそんな乃木希典についてしらべてみることにした。
乃木希典について私が知っていることと言えば、明治時代の軍人で日露戦争で日本を勝利に導いた人物、また明治天皇の崩御に従って夫婦で殉死したことなどである。乃木希典については、インターネットで検索するとかなりのページがヒットするのでここで説明するよりはそちらを見てもらったほうがよいと思う。
ただウィキペディアには乃木に対して世界的評価の一文が書かれていた。
「旅順攻囲戦は日露戦争における最激戦であったから、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価され、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置もまた賞賛の対象となり、特に、水師営の会見におけるステッセリの処遇については、世界的に評価された。
乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。また、子供の名前や発足した会の名称に乃木や乃木が占領した旅順(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発した。
加えて、乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニア及びイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された。」
坂の上の雲で、乃木の活躍が書かれているが、やはり日露戦争での活躍が乃木希典の地位を確固たるものにさせたのかもしれない。
またその後学習院院長にも就任し次の句を残している。
「いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ」
さて乃木希典の人となりはこの程度にして、まずは東京メトロ「乃木坂駅」を降りてみる。
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一番出口から地上にでると乃木神社が目にはいる。境内に入るまえに、このプレートがめにつく。乃木坂の由来について説明されたプレートである。もともとは幽霊坂と呼ばれていた。大正元年(1912年)9月に乃木大将の殉死を悼み、赤坂区議会が改名を議決したことに由来すると書かれていた。没後この名称になったことがわかる。さて乃木神社にお参りすることにする。この神社も大正時代に旧乃木邸敷地に建設された。
太平洋戦争時に一度焼失したが、その後に再建され現在に至っているという。
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境内社は「赤坂王子稲荷神社」「正松神社」。いずれも乃木希典に関連した神社である。
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また拝殿横には、「さがれ石」という国家に一文がある石がおかれていた。宝物殿(といっても1室である)には乃木希典ゆかりのものが展示されている。
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乃木神社には旧乃木邸も見学できるようになっているが、ここでも東日本大震災の影響で保守点検作業のため、一般公開を中止していた。
さて、乃木坂トンネル(トンネルは車専用で歩行者用は横に通路が併設されている。その途中にこのようなプレートがあった。
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地震の後、自然エネルギー活用が叫ばれていることを知っていたかのようなプレートである)を超えて、青山墓地方面へ歩き乃木希典の墓を見て帰宅することにする。青山墓地には乃木将軍通りなるものがあり、その墓もりっぱなようである。
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これがその墓全貌である。本人が望んだのかどうかはわからないが(多分望んではいなかったと思う)、かなりりっぱな設えとなっている。1区画を独占して一族を含めた形の墓となっている。
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墓地としてははずれの方にあるので、探すときは十分注意したほうが賢明であるように思えた(あまり探す人もいないかもしれないが)。
今日のブログタイトルとは書いた内容がそぐわなかったようであるがこのあたりはご容赦願いたい。最後に我家のそばの神社にも乃木希典直筆の記念碑がある。
by motokunnk | 2011-04-17 09:01 | 神社・仏閣・城郭 | Trackback | Comments(0)

青山墓地の桜はとても綺麗である

さて、そろそろ家の周りの桜の木も葉桜となり、花見も終わりかけているようである。ということで今シーズンの花見の締めくくりは青山墓地の桜を紹介しようと思う。さて桜の前に青山墓地について調べてみると
「1872年(明治5年)、美濃国郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主だった青山家の下屋敷跡に開設された。当初は神葬祭墓地であった。1874年(明治7年)9月1日、市民のための公共墓地となった。1889年(明治22年)、東京府から東京市に移管された。1926年(大正15年)、斎場の建物のすべてが東京市に寄附され、日本で初めての公営墓地となった。」
とある。東京都営の墓地と思っていたが、もともとは違っていたことがわかった。これでまた物知りとなった。
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散策していると知識が増えていくものである。さて桜はご覧のように満開である。ご存知のように一方通行の道が通っている両サイドだけでなく、普段は駐車場として開放されている側道にも桜の花が満開となっている。家族連れや老夫婦などが散策がてら花見見物と洒落込んでいる姿を多数見られた。
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と一方では、東日本大震災の被害が青山墓地には及んでおり、墓石が無残に倒れてしまっている墓地も見受けられた。地震から1ヶ月以上が経過しているが、まだまだ復旧はほど遠そうである。
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by motokunnk | 2011-04-14 19:36 | 街の風景 | Trackback | Comments(0)

からくり儀右衛門が泣いている?

先日、鳥居坂教会のお墓を探しに青山墓地に行ったところ(昨日のブログで紹介)、著名な人のお墓を発見した。田中久重のお墓である。田中久重といって知らない人も多いであろう。私もある人の講演を聞くまでは知らなかった。その講演とは、社史研究家の女性が田中久重を講談チックに話しをしてくれたので余計に覚えている。
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からくり儀右衛門と仇名され、江戸から明治にかけて大活躍した発明家であり、今話題となっている福島原発の原子炉の製作会社の基礎となる田中製造所の創設者である。福島原発の原子炉は沸騰水型といわれる原子炉で、これを製造している日本のメーカーは東芝と日立である。田中久重は東芝の基礎をつくった人物であり、写真の記念碑にも東芝の文字が刻まれている。
原発があのようになってしまったことについて東芝に責任はないが、田中久重が生きていたら何を考えているであろう。「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」という言葉を残しているからきっと起死回生策を考え出し世間をあっといわせるのではないかとこの記念碑を見て感じてしまった。
東芝のホームページ → 田中久重物語
by motokunnk | 2011-03-31 19:18 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

麻布十番・「赤い靴」像を見て想うこと

一の橋の交差点から麻布十番商店街を歩くと、程なくして道の真ん中に猫の額ほどのポケットパークを見つけることができる。その中にご覧の童謡「赤い靴」のモデルとなったきみちゃん像が建てられている。
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像といっても台座を含めても1.5m程度の小さなものであるが、存在感はかなりなものである。台座にはプレイトが埋め込まれ、童謡「赤い靴」のモデルとなったきみちゃんについてその生い立ちから亡くなるまでが簡単に書かれている。
「赤い靴」のモデルの女の子は実は外国には行っていなくて国内で一生を過ごしたとはかなり前のTV番組で知ったと記憶しているが、まさかこのように悲惨な人生を過ごしていたのかとは知らなかった。
きみちゃんの一生については、麻布十番未知案内というホームページがあり、その中で詳しく紹介されている。
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亡くなった後は、青山墓地にある鳥居坂教会の墓地に眠っている。墓誌に「佐野きみ」というきみちゃんらしき人物の名前を読みとることができる。
皆さんもこの「赤い靴の女の子 きみちゃん」をぜひ読んで欲しい。そして何かを感じて欲しい。
by motokunnk | 2011-03-30 19:18 | 記念碑 | Trackback | Comments(0)

今年一年を振り返り

今年もあと数時間となってきた。私にとって今年一年どんな年であったのだろうか。昨年に比べれば、よかったといえるのは当然だが、一昨年と比べたらどうであったか、その答えは見出せない。
ただ、日常生活がそれほど不便なくこなせるレベルになってきたことはいいことかもしれない。さて、週末日課としている近所の散歩であるが、目的もなくただ歩くのでは長続きしないので目的をもって歩くようにしている。他人からみればその目的というのは些細なことかもしれない。最近であれば、代々木公園の見所スポットであったり、神社の狛犬であったりする。その中で「ハチ公」の記念碑が建てられていることを知った。
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写真の右に写っているのがその記念碑である。「ハチ公」は東京帝国大学(現・東京大学)教授の上野英三郎氏が飼っていた秋田犬だった。教授の墓は都立青山墓地にあり、その傍らに記念碑が建てられている。「ハチ公」の亡骸は剥製となっていると聞く。小学校のときに渋谷駅で展示されていたのを見た記憶があるので、記念碑というからには分骨されているのかもしれない。訪れた日は教授の墓に花が飾られ、また掃除道具も用意されているので、参拝する人も多いのではと思ったしだいである。一種ロ6号12側に記念碑はある。向かいには警視庁墓地があるので比較的わかりやすい場所である。
このように青山墓地には多数の有名人、著名人の墓があるようで、今後探索して発見したら紹介して行こうと思う。
さて一年を振り返りというタイトルとはほど遠い内容となってしまったが、私の好きなモータースポーツの世界では、ベッテルがF1ワールドチャンピオンとなったことが記憶に新しい。今年はぶっちぎりでチャンピオンシップを獲得するのではと考えられていたが、最終戦まで4人の候補が残り、その中でのチャンピオン獲得、見事であった。日本人としては小林可夢偉の活躍もうれしい出来事であった。前半戦の不振(マシン熟成不足が原因のようだが)から後半戦の進撃は予想を超えるものであった。
もうひとつの趣味(もっぱら観戦であるが)はサッカーの世界では、Jリーグでは発足当初から応援していた名古屋グランパスが初優勝を飾った。生え抜き選手ではなく、有力選手を補強しての優勝にちょっとした違和感は感じるが勝負事は勝ってナンボの世界であるのでこれを機に常勝軍団を目指して欲しい。
生活面では、沖縄、消費税などの問題からか民主党政権が落ち着かない。個人的には応援したきたのだが、このままでは自民党のほうがよかったと思ってしまうほどのガッカリ感が頭の中で充満している。
来年はどんな年となるであろうか、政治が安定してくれることがまず第一である。民主党には頑張ってもらいたいのだが果たしてどうであろうか。
by motokunnk | 2010-12-31 15:42 | 日記 | Trackback | Comments(0)